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大阪高等裁判所 昭和58年(う)605号 判決

主文

原判決中、被告人らに関する各部分を破棄する。

被告人らは、いずれも無罪。

理由

(注) 以下理由中の判文については、次の用語例による。

一  《被告人名用語例省略》

二  Zを含め右五名を被告人らと称し、Zを除く右四名を被告人ら四名と称する。

三  年を表示せず月日のみを表示したものは、昭和五四年の月日である。

四  証拠関係の表示を次のようにする。

1  書証作成者の司法警察員を(員)、検察官を(検)、司法警察員に対する供述調書を員面、検察官に対する供述調書を検面とそれぞれ表示し(なお、右(員)及び員面の次の括弧書は当該司法警察員の氏名を示すものである。)、書証の作成日付につき「昭和五四年一月二二日付」を「54・1・22」というように表示する。

2  被告人らの原審及び当審各公判廷における供述(ただし、Zについては、原審公判廷においては被告人として、当審公判廷においては証人として各供述をしたもの)は、その区別をせず、単に公判廷における供述として表示することがある。

Vに関する控訴の趣意は、弁護人平栗勲作成の控訴趣意書(同弁護人は、右控訴の趣意は、原判示第三の窃盗についても事実誤認を主張するものである旨釈明した。)及び同補充書、Wに関する控訴の趣意は、同被告人及び弁護人黒田宏二作成の各控訴趣意書、Xに関する控訴の趣意は、同被告人及び弁護人山本浩三作成の各控訴趣意書、Yに関する控訴の趣意は、同被告人作成の控訴趣意を記載した書面及び弁護人大川一夫作成の控訴趣意書にそれぞれ記載されたとおりであり、これらに対する答弁は、大阪高等検察庁検察官検事大谷晴次作成の答弁書に記載されたとおりであるから、これらを引用するが、(一)V、X及びYの各弁護人の各論旨は、Vについては原判示の全事実、X及びYについては原判示第一及び第二につき、いずれも、(1)被告人らの捜査官に対する各自白調書は、いずれも任意性がなく、証拠能力がないものであるから、これらを事実認定の資料とした原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があり、(2)被告人らが原判示第一及び第二、Vが第三の各犯行を犯した事実はないのに、これらを積極に認定した原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるというものであり、(二)W、X及びYの各論旨は、いずれも右(一)と同旨であると解せられ、(三)Wの弁護人の論旨は、原判決の量刑は不当であるというものである。

そこで、まず、右各論旨のうち(一)の(1)及び(2)並びに(二)につき、記録及び原審証拠を精査し、当審における事実取調の結果をも併せ考察することとする。

第一事案の概要

一 本件公訴事実について

被告人らに対する本件公訴事実の要旨は、

「第一 V、W、X、Y及びZは共謀のうえ、

一  昭和五四年一月二一日午後一一時三〇分ころ、貝塚市沢六二七番地先路上において通行中のA子(当二七年)を認めるや、強いて同女を姦淫しようと企て、Vらにおいて、やにわに同女の腕を掴み脇腹にカッターナイフを突きつけて道路脇の畑に連れ込み、パンタロン、パンティ等を剥ぎ取ったうえ、同市沢六二八番地の四の高松靖治所有の野菜ハウス内に連行してその場に仰向けに押し倒し、その手足を押えつけるなどしてその反抗を抑圧し、V、Y、X、W、Zの順に強いて同女を姦淫し、

二  右犯行直後、Zが右A子と顔見知りであったところから、右犯行の発覚をおそれ、罪跡を湮滅するため同女を殺害してしまおうと決意し、起き上った同女を再びその場に仰向けに押し倒し、W、Xらにおいて手足等を押え、V、Y及びZにおいて腹部に馬乗りになるなどして両手指で頸部を扼圧し、よって、同女をして、即時、その場で窪息死させて殺害し、

第二 Vは、右犯行直後、右野菜ハウス内において右A子が所持していたショルダーバック内から同女所有にかかる現金約九、五〇〇円在中の財布を窃取したものである。」

というものである(以下単に本件犯行というのは右公訴事実である。)

二 本件犯行現場の状況などについて

関係各証拠によれば、次の各事実が認められる。

1  農業の高松靖治は、一月二二日午後零時一〇分ころ、前記公訴事実記載の野菜ハウス(以下本件ビニールハウスという。)内に女性(被害者)の死体を発見し、直ちに近くの自宅に帰り一一〇番に電話して右事件を通報した。そして、同日午後一時三〇分から司法警察員らによる実況見分が実施された。

2  本件ビニールハウスは、私鉄南海電鉄本線二色の浜駅(以下の駅名はいずれも同本線のそれをいう。)から北に目測約一五〇メートルの同線軌道敷の東側沿いに所在する。その東側はねぎ畑及び高菜畑であり、これを挟んで約二〇数メートル隔てた東側に南北に通じる市道があり、右市道は南方一〇〇メートル余りで東西に通じる二色の浜駅前筋の府道と交差している。

3  本件ビニールハウスは、東側壁三八・七メートル、南側壁二四・七メートル、西側壁二四・五メートル、北側壁一七メートルの梯型のもので、高さ約二メートルの丸太を柱にして周囲(側壁)と屋根とに透明のビニールが張り巡らされており、出入口は南側に二個所、北側に一個所あり、いずれも木枠にビニールが張り付けられた一枚戸が取り付けられ、これらは外側から横木を一本渡し閂にして戸締りできるようになっている。一月二二日の実況見分当時、本件ビニールハウス東側壁のビニールに地上から約五〇―四五センチメートルの高さを底に横六〇センチメートル、縦一二―二二センチメートルの破損が、またその北側壁のビニールにも地上から約四〇センチメートルの高さを底に横六三センチメートル、縦最大二五センチメートルの破損が各一個あり、いずれも人一人が出入りできる状態になっていた。そして、本件ビニールハウスは、春菊畑で南北に長く二〇畝とされ、一畝には三列に春菊が植えられており、背丈約八センチメートルに生長していた。

4  右実況見分当時、被害者の死体は、本件ビニールハウス内の東南寄りの春菊畑上に仰向けになり、畝上に腰部を乗せ、頭は溝に落とし、両袖に腕を通した赤色オーバーを体下に敷き、両乳房と陰部を露出して、ほとんど全裸に近い姿で左腕を頭上に伸ばし、右腕を右側方に伸ばし、左足はやや膝頭を折り曲げ、右足は股を開く形で膝頭を張って倒れていた。その顔面は、土をかぶったようになっており、目、鼻、口に土が詰まり、首筋や左右大腿部、陰部の上面にも多量の土が付着していたが、現場においては外見上外傷らしいものは認められなかった。死体の周囲の畑約二メートル四方が荒された状態であり、それも単に踏み荒しただけでなく土をすくいあるいは掘り起したと見られる状況であった。死体の下半身に着衣がなく、上半身に袖を両腕に通した赤色オーバー、カーデガン、カッターシャツ、ブラジャー各一枚を着しており、カッターシャツの釦三個がとれ、ブウジャーは前方の縫目が裂けてちぎれていた。

5  被害者の死体を解剖した結果、死体の前頸部に長さ三・〇センチメートル及び四・五センチメートルの線状の皮下出血があり、その周辺に砂粒大皮下出血が散在し、これらは指又は手などによる扼痕であって、被害者の死因は、頸部扼圧による窒息死であり扼殺であると認められ、死後経過時間は、解剖終了時の一月二二日午後七時四〇分において大約二〇ないし二五時間くらいと推定された。また、被害者の膣内に精虫を証明し、死に近く姦淫されたものと認められた。

6  前記実況見分当時、本件ビニールハウスの東側の高菜畑の市道脇に被害者の所持品であると思われるショッピング用紙袋、赤色布製手提バック、ビニール手提袋各一個がかためて置かれており、また右高菜畑内に被害者の下着と思われるパンタロン、パンティストッキング、パンティ各一枚、皮靴一足が一かたまりとなって遺留されていた。なお、一月二二日午前八時三〇分ころ、通行人が右高菜畑と東側市道との間の側溝から被害者の所持品と思われる茶色皮製ショルダーバック一個を拾得していた。

7  被害者は、A子(当時二七歳)であり、同女は、一月二一日、実家である兵庫県伊丹市《番地省略》B方から当時居住していた大阪府貝塚市《番地省略》に帰る途中、本件犯行現場付近を通り掛かったものとみられる。なお、同女は、同日午後九時ころ、右B方を出発しており、伊丹市バス、阪急電鉄、地下鉄(御堂筋線)、南海電鉄を乗り継いだものと思われ、その場合、二色の浜駅に到着することができるのは、最も早くて午後一〇時三五分であり、被害者は右時刻以後に同駅に到着したとみられる。

三  被告人らの身上、経歴及び生活状況などについて

関係証拠によれば、次の各事実が認められる。

Vは、昭和四八年初めころ、実父の仕事の関係で静岡県から貝塚市内に転居し、同年三月同市立中学校を卒業後、工員、土方、店員など短期間での転職を繰り返し、昭和五二年三月二二日恐喝未遂保護事件で中等少年院送致の処分を受け、同年一二月退院後は稼働せず、昭和五三年五月三〇日大阪地方裁判所で恐喝罪により懲役一年、三年間刑執行猶予に処せられ、その後も無為に日々を送り、家族としては、両親、実弟のWのほか、弟二人と妹一人がいるが、本件犯行当時は、友人宅を泊り歩いて住居不定の状態にあったもの、Wは、実兄のVと同様昭和四八年初めころ貝塚市内に転居し、昭和五一年三月同市立中学校を卒業後、工員、左官見習などをした後、昭和五三年八月ころからトラック運転助手として稼働し、両親らと同居していたもの、Xは、貝塚市で出生し、幼少時に実父が死亡したため実母の手で養育され、昭和五一年三月同市立中学校を卒業後、工員、土方などをしていたが、昭和五四年になってからは仕事もせず、貝塚市内に居住する実母、兄の許を離れ、空家であった大阪府岸和田市《番地省略》の叔母C子方居宅でD子と同棲しながら無為の生活を送っていたもの、Yは、実父の仕事の関係で小学生のころから大阪市内に居住し、昭和五一年三月同市立中学校を卒業後、工員、コック見習などをしていたが、昭和五四年一月一〇日ころ、同市内に居住する両親、弟妹の許を離れ、仕事もせずX方に居候をしながら無為徒食の生活をしていたもの、Zは、貝塚市内で出生し、昭和五一年三月同市立中学校を卒業後、土工、工員などとして稼働し、昭和五三年八月から大阪府泉佐野市内の鮮魚店店員をし、祖母、実父、兄妹と同居していたものであるが、V、Wの兄弟とYとは従兄弟で、XとW及びXとYとはいずれも以前一緒に仕事をしたことがあり、ZとWとは中学校の同級生であったという関係などから、被告人らは、遊び仲間となり、貝塚駅前にある貝塚市《番地省略》所在の喫茶店「カーミン」を溜り場として、岸和田、貝塚、泉佐野各市内のパチンコ店、喫茶店などを俳徊して交友していたものである。

四  本件捜査から本件控訴申立に至るまでの経過について

関係証拠によれば、次の各事実が認められる。

1  Zは、一月二六日午後八時ころ、被害者の内緑の夫であるEことF(以下Eという。)に連れられて大阪府貝塚警察署(以下貝塚署という。以下他の警察署も同様に称略する。)に出頭して、本件犯行(ただし、自己の姦淫及び殺害の実行行為を除く。)を自白(右及び以下において自白とは広く不利益事実の承認を含むものをいい、また単に不利益事実の承認のみをもいう。)し、1・27員面(角谷末勝)を録取された後、同月二七日午前二時零分ころ、同署において、司法警察員に緊急逮捕された。その緊急逮捕手続書によれば、被疑事実の要旨は、「被疑者V、同Z、同W、同X、同Yらは、通行中の女性を襲って強姦しようと共謀のうえ、一月二一日午後一一時四〇分ころ、貝塚市沢六三三番地の四先路上を通行中のA子(当時二七歳)を認めるや、V、Yの二人が同女の背後から近づきYが所携のカッターナイフを突きつけて脅迫し、西側の野菜畑に連れ込んで同女のパンタロンなどを脱がせて裸にしたうえ、他の被疑者らが待つ同市沢六二八番地の四の高松靖治所有の野菜ハウスの中に引きずり込み、Zが同女の左手、Yは首、Wは右足、Xは左足を押えつけてその反抗を抑圧したうえ、V、Y、X、Wの順に同女を次々と姦淫後、犯行の発覚をおそれたVが『殺してしまえ。』と言った言葉に全員共謀して殺害を決意し、VとYが手で同女の頸部を扼圧し、そのころ同所において頸部扼圧により窒息、死亡するに至らせたものである。」というものである。そして、Zは、(員)(角谷末勝)に対する1・27弁解録取書において、右緊急逮捕手続書記載の犯罪事実を認めたうえ、1・27員面(北川幸夫)において、自分が姦淫したことを含めて自白し、(検)に対する1・28弁解録取書でも同様の自白をしているが、裁判官の1・29勾留質問調書では、被疑事実は間違いないと述べながら、自己が姦淫したこと及び首を絞めたことは否定し、Vに誘われて付いて行った旨述べている。その後、Zは、捜査官に対し本件犯行を全面的に自白している(2・1員面、2・2員面、2・3員面、2・6員面、2・6検面、2・8員面、2・9員面、2・10員面、2・12検面、2・15員面、2・16検面((二通))、3・6検面、3・7検面)。

2  Vは、一月二七日午前五時五分、泉佐野市《番地省略》第二甲野荘L方において、前記Zの緊急逮捕手続書記載と同様の被疑事実で緊急逮捕されて、同日午前五時五〇分貝塚署に引致された。Vは、(員)(谷村安男)に対する1・27弁解録取書、1・27員面(谷村安男)、(検)に対する1・28弁解録取書、裁判官の1・29勾留質問調書では、被疑事実を否認していたが、1・30員面(谷村安男)で本件犯行を自白し、その後も捜査官に対し全面的に自白している(2・1員面、2・3員面、2・4員面、2・6検面、2・9員面、2・10員面、2・12員面、2・13員面、2・14検面、2・15員面、2・17検面、2・24員面)。

3  Wは、一月二七日午前四時、貝塚市《番地省略》乙山食品寮内U方において、前記Zの緊急逮捕手続書記載と同様の被疑事実で緊急達捕されて、同日午前四時一五分貝塚署に引致された。Wは、(員)(浅田勇一)に対する1・27弁解録取書で本件犯行を自白し、その後も捜査官及び勾留裁判官に対し全面的に自白している((検)に対する1・28弁解録取書、裁判官の1・29勾留質問調書、2・3員面、2・6検面、2・9員面、2・10員面、2・13検面、2・15員面、2・15検面、2・16員面、3・6検面((二通))、3・7検面)。

4  Xは、一月二七日午前五時一五分、岸和田市《番地省略》C子方において、前記Zの緊急逮捕手続書記載と同様の被疑事実で緊急逮捕されて、同日午前五時四〇分貝塚暑に引致された。Xは、(員)(山之口公)に対する1・27弁解録取書では、「一月二二日はにしきの浜の駅や海の方に行きました。言いたいことは只、申訳ありません。それ丈です。」とのみ陳述し、1・27員面(成原明)で本件犯行を自白し、その後も捜査官及び勾留裁判官に対し全面的に自白している((検)に対する1・28弁解録取書、裁判官の1・29勾留質問調書、2・1員面、2・3員面、2・4員面、2・6検面、2・9員面、2・10員面、2・11員面、2・13検面、2・15員面((二通))、2・16検面((二通))、3・7検面)。なお、Xは、二月一六日付で「ぼくの今のきもち」と題し、A子を殺したことを反省している旨の供述書を作成して捜査官に提出している。

5  Yは、一月二七日午前五時一五分、前記C子方において、前記Zの緊急逮捕手続書記載と同様の被疑事実で緊急逮捕されて、同日午前五時四〇分貝塚署に引致された。Yは、(員)(角谷末勝)に対する1・27弁解録取書では、被疑事実を否認していたが、1・27員面(角谷末勝)で本件犯行を自白し、その後も捜査官及び勾留裁判官に対し全面的に自白している((検)に対する1・28弁解録取書、裁判官の1・29勾留質問調書、2・2員面、2・3員面、2・5検面、2・8員面((二通))、2・9員面、2・11検面、2・13員面、2・15員面、2・15検面((二通))、3・6検面)。

6  Vは、二月一七日、原裁判所に本件公訴を提起された。Z、W、X及びYは、いずれも当時一八歳の少年であったため、同日、本件犯行(ただし、本件公訴事実第二を除く。)につき、家庭裁判所に送致された後、同月二七日、検察官送致の決定を受け、三月八日、原裁判所に本件公訴を提起された。

7  原裁判所は、審理の結果、昭和五七年一二月二三日、本件公訴事実に沿う強姦、殺人、窃盗(Vにつき)の各事実を認定し、Vを懲役一八年に、その他の被告人らをいずれも懲役一〇年に処する旨の判決を言渡した。

8  原判決に対し、Zは控訴の申立をせず、原判決中同人に関する部分は確定したが、その余の被告人ら四名はそれぞれ本件控訴を申立てた。

五  争点について

1  被告人らの検察官に対する各自白(Zの2・6検面、2・12検面、2・16検面((二通))、Vの2・6検面、2・14検面、2・17検面、Wの2・6検面、2・13検面、2・15検面、Xの2・6検面、2・13検面、2・16検面((二枚綴の分))、Yの2・5検面、2・11検面、2・15検面((二通)))は、その間に多少のくい違いがあるが、その大筋は、次のとおりである。すなわち、

「被告人らは、一月二一日午後七時ごろから、貝塚駅前にある喫茶店『カーミン』で一緒になって遊んでいたところ、同日午後九時ころ、Vが、他の被告人らに女性と性交したい旨発言したことから、他の被告人らも賛成し、外で女性を見付けて輪姦しようということに相談がまとまった。被告人らは、同日午後九時三〇分ころ、自転車三台に分乗してカーミンから二色の浜公園に行き、アベックを冷かしたり、女性に声を掛けたりしたが、適当な女性を捕まえることができず、電車から降りて来る女性を探すため、同日午後一一時ころ、二色の浜駅に行った。そこで、Vが、その付近のことを知っているZに、強姦をするのに適当な場所がないかと尋ねたことから、Zが本件ビニールハウスに他の被告人らを案内し、被告人らはここで輪姦することを決め、W、X及びZの三名が本件ビニールハウス内で待機し、VとYの二人が二色の浜駅から帰宅途中の女性を捕まえることになった。そして、VとYは、同日午後一一時三〇分ころ、二色の浜駅前筋の府道から本件ビニールハウス東側の市道の方へ歩行してくる被害者のA子を認め、右市道上において、Vが所携のカッターナイフを同女に突き付けて脅迫し、Yが同女の腕を掴み、同女の携帯していた手荷物を本件ビニールハウス東側の畑の上に放り投げたうえ、同女を右畑の中に引っ張り上げ、同所で同女が暴れたので、そのパンタロン、パンティなどを脱がして下半身を裸にしたうえ、本件ビニールハウスの南側入口から中に連れ込み、待機していたZら三名とともに、同女を仰向けに押し倒した。そして、被告人らが交互に同女の手足を押え付けたうえ、V、Y、X、W及びZの順で同女を順次姦淫し、それぞれ射精した。Zが、自分が姦淫し終わってから他の被告人らに同女が顔見知りである旨告げたことから、強姦の犯行の発覚をおそれたVが、同女を殺害すべく『いてもうたれ、殺せ。』と声を掛け、他の被告人らもこれに応じ、互いに意思を通じたうえ、被告人らは一斉に同女に飛び掛かり、V、Y及びZがそれぞれ両手で同女の首を絞め、W及びXが同女の手足を押え付けてこれに協力し、同女を殺害した。その後、Vの指示により被告人らは、同女の死体を同所に埋めようとして穴を掘ろうとしたが、土が固かったので中止し、死体に土を掛け、生き返らせないようにその鼻や口に土を詰め、さらには陰部にも土を詰め込んだ。そのとき、Vが、Zに畑の方から被害者の荷物を取ってくるよう指示し、Zがその荷物を持って来るや、Vは、その荷物のうちのショルダーバックの中から丸い形の青色か緑色のがま口を取り出して自分のポケットに入れて盗んだ。そして、Vの指示で被告人らは死体の周辺の足跡を足で消したうえ、本件ビニールハウスから外に出て逃走した。」

というのである。

2  被告人らは、いずれも原審第一回公判期日以来一貫して本件犯行を否認している。そして、被告人らの弁解及び被告人らの各弁護人の主張は、いずれも、本件犯行と被告人らとを結びつける物的証拠はなく、また、被告人らの捜査段階における各自白調書における自白は、捜査官らの暴行、脅迫によるもので、任意性及び信用性がないのみならず、被告人らには、それぞれアリバイがあるというのである。

原判決は、右被告人らの弁解及び弁護人らの主張を排斥し、前記四の1ないし5掲記の被告人らの各供述録取書及び供述書の任意性及び信用性を認めてこれらを採証の用に供している(ただし、各検面を除く各書面は当該被告人だけの関係で証拠とされている。)が、それらの任意性及び信用性を認めたことについて何らの説示もしておらず、アリバイの主張に対してのみその成立しない理由を説示している。

第二被告人らの各自白の任意性

一 ZのEに対する自白とその任意性について

本件犯行につき、被告人らに対する捜査が開始されたのは、前記第一の四の1記載のとおり、Zが一月二六日午後八時ころ、Eに連れられて貝塚署に出頭したことに端を発するのであるが、Zは、その前にすでにEに対して本件犯行(ただし、その全部ではない。)を自白しているので、その自白の内容とそれが任意になされたものかどうかを検討する。

Eの原審証言及びZの公判廷における供述によれば、次のような事実が認められる。すなわち、「EとZとはお互いに近くに居住していた関係で顔見知りであり、顔を合わせたときには声を掛ける間柄であった。Eは、内妻が本件犯行の被害者になったため、犯人が近所の者ではないかと心当たりを探していたところ、一月二三日路上でZと顔を合わせ、また翌二四日同人を自宅に連れて行ったときの同人の態度から同人が犯人ではないかとの疑いを持つに至った。そして、一月二六日午後六時すぎころ、貝塚駅前で張り込んでいて同人に出合い、喫茶店に連れ込んで同人に対し本件犯行につき尋ねたが、同人が自白しなかったため、さらに同人を貝塚駅の西方にある脇浜の海岸に連れて行き、さらに追及した結果、同人が本件犯行を自白した。その自白の内容は、一月二一日の夜、V、W、Y、X及びZが貝塚駅前から二色の浜公園(海岸)をぶらぶらした後、本件ビニールハウスに行き、同所で女性を姦淫することにし、VとYがカッターナイフを突き付けて被害者を本件ビニールハウス内に連れ込み、Zを除く他の者はVから順番に同女を姦淫し、同女が抵抗したので、Vが殺せと言い、同人とYが同女の首を絞めて殺害したが、その際Zは同女の手を押さえ付けていただけであり、右殺害後皆で同女に砂を掛けて埋め、足跡を消し、Vが被害者の財布を取ったのち、全員がその場から逃げ、ZはVと二人で羽倉崎の友達の家に行って泊った、というものであった。Zが右自白をしたので、EはZを自宅に連れ帰り、同様の自白を確認したうえ、手帳(原審昭和五四年押第三五号符号26=当審昭和五八年押第二五五号符号26。以下証拠物は同押号につき符号のみで示す。)に『YVがナイフをA子ちゃんにつきつける。ハウス内に連れ込む Vが最初にA子ちゃんをおかす。二番目にYがオカス 三番目にXがオカス四W まちがい有りません。』と書き、その下にZに『昭和五四年一月二六日午後七時半 Z A子ちゃんを殺したのは四人でころしました Z』と書かせたうえ、血判を押させた。その後、同日午後八時すぎころ、EはZを連れて貝塚署に出頭した。」という事実である。

ところで、Zの公判供述は、同人がEに右自白をした状況について、「自分は、Eから喫茶店で本件犯行につき尋ねられて、知らない旨言ったところ、殺すぞと脅され、さらに脇浜の海岸に連れて行かれて、同所でも本件犯行をしていない旨答えると、同人から顔を三、四回殴られ、ナイフか包丁を突き付けられて脅され、殺されるかも知れないと怖くなったので、同人が聞いてくることに次々と思いつきでうそを自白した。自分以外の四名の名前を言ったのは、誰と遊んでいたかと聞かれたからである。手帳の血判は、同人からナイフか包丁で右手の人差指を切られて押さされたものである。」旨Eから暴行、脅迫を受けたことを明確にかつゆるぎなく述べている。これに対し、Eは、原審において、「脇浜ではZの顔を一回殴っただけである。そのとき、自分はナイフなど持っていなかった。手帳の血判は、Zが自分で指を切って押したものである。」旨証言し、Zの供述との間にくい違いをみせているものの、「Zが自白をした際、自分の剣幕がすごかったから、同人は自分に殺されると思ったようである。もし、Zが手を下したことを認めたら、自分は警察へ行かないでどうなっていたか分からない。」旨をも証言していて、Zの自白が異常な状態のもとでなされたことを認めている。また、前記認定のようにEが自白しているZを直ちに警察に通報しあるいは出頭させないで、同人に血判を押させたということも特異なことであり、異常な状況があったことを窺わせる。右の諸事情に照らすと、Zの右供述のようなEによる暴行、脅迫があったことを強ち否定することはできず、したがって、ZのEに対する前記自白は同人に強要されたもので任意になされたものでない疑いを容れる余地があるといわざるをえない。そうすると、Eの原審証言中、Zの同人に対する自白を内容とする部分(以下Zの自白に関するE証言という。)は、これを被告人らの本件犯行を認定する証拠とすることはできないといわなければならない。

二 被告人らの捜査官に対する各自白とその任意性について

1  被告人らに対する取調状況について

(一)  Zに対する取調状況について

Zは、公判廷において、捜査官による取調状況につき次のような供述をしている。すなわち、「一月二六日夜貝塚署へ出頭し、小さな取調室で五、六人くらいの警察官から『お前ビニールハウスやったやろう。』と言われ、やってないと答えて二、三〇分くらい黙っていたら、警察官からもうこっちでちゃんと分かっているんだと言って、平手で殴られ、頭を壁にぶつけられ、足を踏まれるなどの暴行を受け、仕方なく、V、W、X及びYの四人が被害者を強姦し、殺害した旨Eに述べたと同様のことを自分の思い付きでしゃべった。自分自身はやっていないと言っていたが、調書をとられて逮捕された。逮捕されてからも、その日に、髪の毛を引っ張られたり、頭を壁にぶつけられたり、蹴られたり、殴られたりされ、怖かったので自分もやったことを認めた。これら暴行をした警察官の名前は分からない。その後、一月三〇日ころ暴行を受け、その後も警察で毎日のように同様の乱暴を受けた。乱暴をしたのは自分を取り調べた刑事である。河原刑事に殴られたり、髪の毛を引っ張られたりしたことがある。その間面会に来た弁護人に対し、警察官から乱暴を受けていること及び犯行をしていないが怖いから否認できない旨を述べたことがある。検察官の敢調に対しては、警察が怖いので警察で述べたとおりを述べた。二月六日の検察官の取調を受けて帰る自動車内で警察官から『お前はまだ正直に言っていない。』といって殴られ、また、同月一六日の検察官の取調を受け警察に帰ってからも同様に言われて殴られた。」というのである。これに対し、当初Zの取調に当たった司法警察員角谷末勝は原審(第二〇回公判)において、「一月二六日貝塚署で出頭してきたZを取り調べたが、同人がEに連れられて出頭してきたことを知っていただけでEとどのような経緯があったのか知らなかった。先入観なしでZに対し本件犯行について尋ね、同人は普通の状態で供述した。同人を逮捕するまでの間に、同人に対し自分らが暴行を加えた事実はない。」旨証言している。しかし、Eの原審証言によれば、同人はZを連れて貝塚署に出頭した際、Zに血判を押させた前記の手帳(符号26)を持参し、警察官に一、二時間話をしたことが認められることに徴し、右角谷がEがZを連れてきた経緯を知らないまま同人の取調べに当たったということは不自然であること、後記(五)で判断するように角谷のYを取り調べた状況についての供述が措信できないこと、前記第一の四の1で認定したように、Zは、逮捕された後1・27員及び(検)に対する1・28弁解録取書では自己の姦淫行為を認めながら、裁判官の1・29勾留質問調書では、なお自己の姦淫行為を否定していることなどに照らすと、角谷のZを取り調べた状況についての前記の証言をにわかに措信することができず、また、Zを逮捕した後の取調状況につきほかに検察官の立証がないので、結局Zの前記取調状況についての供述、すなわち取調当初から引き続き暴行を受けていた旨の供述を虚偽であるとして排斥できないというべきである。

(二)  Vに対する取調状況について

Vは、公判廷において、捜査官による取調状況につき次のような供述をしている。すなわち、「一月二七日午前五時ころL方にいたところ、警察官が三名来て一月二一日の事件を知っているだろうと言われ、当時L方にいて現場にいなかった旨否認したら、自分一人が玄関の方の部屋に連れて行かれ、手錠をはめられて正座させられ、踏まれたり、蹴られたりした。それから貝塚署に連行され、広い部屋で谷村刑事から『お前やったんか』と聞かれて、やってない旨否認したところ、髪の毛を引っ張られた。それから直ぐ泉佐野署に移され、同日から一月二九日まで警察官から髪の毛を引っ張られたり、床に土下座させられたり、壁に頭をぶつけられたり、正座させられて踏まれたり、蹴られたりした。取調主任の谷村からは髪の毛を引っ張られたことがある。一月二九日裁判官の勾留質問を受けてから、刑事から『お前がやってないと言っても裁判官が認めたんだ。家に帰らしてもらえへんやろ。』などと言われて、髪の毛を引っ張られたり、殴られたりしたので、嫌になって死んでやろうと思って頭突きをして窓ガラスを割ったりして暴れた。その結果、一月三〇日に本件犯行を認めたが、具体的な供述ができず、刑事のいうとおりに答えた。右自白をしてからは余り暴行をされていないが、供述内容が他の者と違うといって髪の毛を引っ張られたことはあった。がま口を盗んだことを認めさせられ、それを捨てた場所も供述させられたが、その供述した場所からがま口が発見されなかったため、谷村主任と福田刑事から髪の毛を引っ張られたり、壁に頭をぶつけられたり、さらに蹴られたりなど目茶苦茶に暴行された。検察官の取調の際には、横に刑事がいたので、警察と違う供述ができなかった。」というのである。これに対し、Vの引致を受けて後、引き続き同人を取調べた司法警察員谷村安男は、原審(第二一回及び第二二回公判)において、右暴行の事実を否定し、「一月二九日にVが暴れたのは自白する気になったからであり、翌三〇日に自白をしたのは同人がその気になったからである。」旨の証言をしている。しかしながら、Vの前記暴行を受けた事実に関する供述は、暴行を受けた経緯を含めて極めて具体的であるうえ、一月二七日L方で暴行を受けたという点及び自白後は余り暴行を受けなかったが、がま口が発見されなかったときに暴行を受けたという点には真実性が窺われること、Vは、右谷村の原審(同右)証言に対する反対尋問において、自らが具体的状況を前提とした暴行の事実につき迫真力のある質問(自らの供述の形でなされている。)を数回にわたってしていること、右谷村の原審(同右)証言によるも、Vが一月三〇日に自白をするに至った経緯につき納得できるような説明がないことなどに照らすと、右谷村は否定するけれども、Vの前記警察官から暴行を受けた旨の供述が真実である可能性を否定することはできないと考えざるをえない。

(三)  Wに対する取調状況について

Wは、公判廷において、捜査官による取調状況につき次のような供述をしている。すなわち、「一月二七日自宅で寝ているとき警察官から布団をめくられて起こされ、貝塚署に連行された。そして、同日午前四時四〇分ころ、同署の取調室に入れられ(右時刻は同室の時計で分かった。)、浅田刑事ほか二名から被疑事実も告げられず、いきなり『お前が首を絞めて殺したんか。』と言われ、知らないと答えた。(員)に対する弁解録取書に、同日午前四時二〇分ころに被疑事実を認めた旨の記載があっても、そのころには認めていない。刑事から暴行を受けたが、やってないと言っていた。名前の分からない刑事二人から手錠をはめたままの状態で頭を手拳で一四、五回殴られ、足を蹴られたり、髪の毛を掴んで引っ張られたり、頭を壁にぶつけられたりした。そのため我慢できなくなって、午前七時四〇分ころ、被疑事実を認めた。(員)に対する弁解録取書が作成されたのは午前八時を回っていたと思う(右時刻は取調室に時計が掛かっていたので分かっていた。)。その後、最初の勾留一〇日間のうち二、三度警察官から殴られたり、蹴られたりしたが、そのうち一度は十数回殴られた。勾留延長になってからも何回か殴られた。浅田主任からも机の下から蹴られたことがあり、また顔を手拳で殴られたこともある。自分の供述が他の者と違うと言われて暴行を受けたのは、強姦の順序を自分がXより先であったと言ったとき、被害者の財布の中味を知らないと言ったとき、カーミンから本件ビニールハウスに行った道順を言ったときなどであった。取調で暴行が一番ひどかったのは一月二七日であった。弁護人と面接したとき、弁護人からやってないならやってないと弁解するよう注意されたが、刑事からは、弁護人と何を話したか言えと言われて、本当のことを言うと何をされるか分からないので、刑事にはやっていないと言えなかった。また、検察官に対しても、本件犯行を認めたが、それは、その取調のそばに警察官がいて、やってないと言うと警察に帰ってから何をされるか分からないと思い怖かったからである。検察官からは調書を読み聞かされたが、警察では一度も調書を読み聞かされたことはない。」というのである。これに対し、Wを緊急逮捕し、その後も引続き同人を取り調べた司法警察員浅田勇一は、原審において、「Wを緊急逮捕して貝塚署に連れて帰り、すぐ被疑事実を告げたところ、同人はしばらく震えながら黙って涙ぐんでいたが、その後で『すみません。』と言って事実を述べた。弁解録取書は、その記載どおり午前四時二〇分に作成した。Wに暴力を振ったことはない。」旨証言している。両者の右各供述を対比してみるに、Wの右暴行を受けた事実に関する供述は、極めて具体的詳細であり、特に暴行を受ける原因事実との結び付きは合理的で自然であること、Wは、右浅田も暴行をした旨明確に供述し、同人の原審証言に対する反対尋問において、自ら、具体的場面における同人らの暴行につき質問(自らの供述の形でなされている。)を数回して同人を追及したのに対し、同人は、単にその事実がないとかそんなことはできないはずであると否定するにとどまっていることなどに照らすと、右浅田の否定の証言にもかかわらず、Wの前記警察官から暴行を受けた旨の供述を虚偽であるとして排斥することはできないというべきである。

(四)  Xに対する取調状況について

Xは、公判廷において、捜査官による取調状況につき次のような供述をしている。すなわち、「一月二七日午前五時すぎころ、C子方で寝ていると、警察官四、五人が来て、一緒に来てくれと言われ、事情が分からないままYとともに貝塚署に連行された。その際、緊急逮捕するといわれていない。貝塚署に行くと、大きな部屋に入れられ、床の上に正座させられたうえ、警察官から初めて『お前殺したやろ。』と言われ、やってないと言ったあと黙っていると、二人いた警察官のうち一人から断続的に手ぬぐいかハンカチかを巻いた右手拳であるいは素手の左手拳で顔を一〇回以上殴られ、腹も足で蹴られた。殴った警察官の名前は分からないが、背丈が一七〇センチメートルくらいの眼鏡を掛けた人であった。二時間くらいした午前七時三〇分ころ(右時刻はその部屋の時計で分かった。)、殴られるのが怖くて犯行を認めた。すると、簡単な書類を作るといって小さな取調室に連れて行かれた。弁解録取書に署名したか記憶しないが、その部屋で名前を書いたと思う。犯行の内容を聞かれても事情が分からず黙っていると足を一〇回以上も蹴られた。その部屋に一時間くらいいた後、泉南署に連れて行かれ、同日午後九時ころまで取調べを受けた。床に正座させられていたが、背中の上へ足を乗せて押し付けられた以上の暴行はなかった。その後も連日警察官に取り調べられたが、大体は床に正座させられていた。自分が素直に『はい。』と言って、警察官が気嫌のよいときは正座ではなく、椅子に座わらせてくれた。検察官の取調のときやってないと言えなかった。それは武田刑事(武内刑事の誤りと思われる。)がその取調に同席しており、否認すると警察に帰ってから暴行されると思ったからである。また、2・16供述書は、刑事が白紙の紙を持ってきて、言うとおり書けといわれ、やむなく書いて署名指印したものである。」というのである。これに対し、Xを逮捕し、当日(一月二七日)同人を取り調べた司法警察員成原明は、原審において、Xに対する暴行の事実を否定したうえ、「Xを貝塚署に連行したとき、当初同人は否認していたが、しばらくして震え出して自白した。自白をしたきっかけは記憶していないが、同人の供述に矛盾があってその説明ができなかったからと思う。」旨証言し、また、一月二九日からXを取り調べた司法警察員武内勝春は、原審証人として、Xに対し暴行を加えた事実はない旨供述している。しかし、Xの右一月二七日自白するまでに受けた警察官による暴行についての供述は、非常に具体性に富むものであるのに対し、右成原の右Xが否認から自白に転じたきっかけについての証言があいまいであること、Xの右弁解録取に関する供述及び前記第一の四の4に記載したようにXの(員)に対する弁解録取書における供述が「一月二一日はにしきの浜の駅や海の方に行きました。言いたいことは只、申訳ありません。それ丈です。」という認否いずれであるか不明のものであることに徴し、司法警察員のXに対する弁解録取には手続上の正当性に疑念を容れる余地があると思われること、Xは、右成原及び右武内の前記各証言に対し、それぞれ自ら反対尋問して、具体的場面における警察官の暴行につき迫真性のある質問(自らの供述の形式でなされている。)をして追及したのに対し、同人らはいずれもそのような事実はないとか記憶にないとか答えるにとどまっていることなどに照らすと、右成原及び右武内の前記否定の各証言にもかかわらず、Xの前記警察官から暴行を受けた旨の供述を虚偽であるとしてにわかに排斥しがたいといわざるをえない。

(五)  Yに対する取調状況について

Yは、公判廷において、捜査官による取調状況につき次のとおり供述している。すなわち、「一月二七日午前五時すぎころ、C子方で寝ていたところ警察官が来て、荷物をまとめて付いて来いと言われ、貝塚署に連行された。そのとき本件被疑事実は聞かされていない。貝塚署に行き、取調室で警察官から『一週間前に何やったんや。』と言われ、高橋とのけんかのことを言ったら、『そんなことやないんや。』と言われた。その後、取調主任の角谷刑事から被疑事実の内容を聞かされ、『お前がやったんやろ。』と言われ、否認すると、一月二一日の行動を言えと言われ、K子と一緒にいたことなどその日の行動を何回も述べたが、聞いてくれなかった。そしてその日、高石署に連れて行かれるまでの間、角谷刑事らから、正座させられて、スリッパで頭を殴られたり、腹を蹴られたり、歯茎のところを押えられたり、耳を引っ張られたりされた。その間、午前一一時ころ警察官がZを連れて来て、同人に自分のことを『こいつがやったんやな。』と言うと、Zがうなずいたので、他の者も認めていると思い、正午ころには自分も認めた。自分の弁解録取書がいつ作成されたか覚えていない。その日、自白した後も角谷刑事の取調に対し、ビニールハウスの所在場所を適当に言ったら位置が違うと言って殴られ、また、自分の手の甲の傷を見つけられて、Xと力比べしてできた傷だと言っても信用してくれず殴られた。一月二八日以降も毎日のように暴行されたが、刑事の言うとおり返事していたら殴られない日もあった。乱暴されたのは、角谷主任と本田刑事からで、一人に後ろから掴まれて動けないようにされ、一人に前から腹を手拳で殴られた。また、本田刑事から頭をスリッパで殴られたり、壁に頭をぶつけたりされた。暴行を受けたのは、被害者の財布を知らないと言ったりしたときとか、ビニールハウスの入口とか、ナイフのことなどの説明が十分できないときなどであった。水谷弁護人と違う別の弁護人が面会に来たとき、同人に本件犯行をやったと言ったが、それは、刑事が、今日弁護士が来るが警察に述べたことと同じことを言わないと後で知らんぞと言われていたからである。その後、水谷弁護人が来たとき、同人に本件犯行をやってないと言った。初め検察官に取り調べられたときは警察と区別がつかず、同じことと思って否認しなかった。最後に高石署で検察官の取調を受けた際、もう一度調べてもらおうと思ってやってないと言ったら、検察官が怒って帰ってしまい、自分は留置場に戻されて角谷主任と本田から取調室で正座させられ、反省の色がないからもう一度考え直せと言われ、角谷主任に正座した足の上に乗られたりした。また、そのあとスリッパで頭を殴られた。そのため、再び検察官に対し、やってないと言ったのはうそであった旨供述した。」というのである。これに対し、Yを当初から取り調べた司法警察員角谷末勝は、原審(第二〇回公判)において、Yに対する暴行の事実を否定し、「同人は当初の弁解録取では否認したが、自白するまでに一時間くらいしかかからなかった。同人の手の傷を追及したら、同人が被害者にひっかかれたものであることを認め、本件犯行を自白した。」旨証言している。しかしながら、Yの右暴行を受けた事実に関する供述は、その暴行を受ける原因事実を含めて極めて具体的で迫真力に富むものであるのに対し、右角谷の供述は、ただ暴行を否定するだけであること、右角谷は、Yが自白をしたきっかけとして同人が手の傷を追及されたからである旨供述するのであるが、Yは、その傷がXとの力比べをしてできた傷である旨弁解しても右角谷が聞いてくれなかった旨供述するところ、後記第三の三で認定判断するように、Yの右の手の傷が、被害者にひっかかれた傷ではなく、同人の右弁解どおりの可能性が大きいと考えられることに徴し、角谷の右Yの自白のきっかけに関する供述は到底信用できないこと、また、右角谷は、Yの取調中にZを引き合わせたことは否定しながら、両者が顔を見合わせたことを認めるようなあいまいな供述をしていることなどに照らすと、右角谷は否定するけれども、Yの前記警察官から暴行を受けた旨の供述が真実である可能性が強く、これを虚偽としてたやすく排斥できないといわなければならない。

2  結び

前記1の(一)ないし(五)に説示したとおり、被告人らの司法警察員による取調の際に暴行を受けた旨の各供述を虚偽であるとまでいえないとすると、被告人らの司法警察員に対する各自白の任意性については疑いがあるといわなければならない。そして、被告人らが公判廷において供述するように、被告人らは、検察官による取調を受ける前に警察官から警察で述べたとおり供述するように言われたり、またその取調に警察官が同席し、取調後警察署に連れ帰られる際、その取調における供述を非難され、暴行まで受けている疑いがあることに照らすと、検察官が被告人らに対し直接暴行、脅迫を加えた事実がないにしても、被告人らの検察官に対する各自白が警察官による不当な影響が遮断された状況の下でなされたものとは認められず、その任意性についても疑いがあるといわざるをえない。また、その間になされたVを除く被告人らの勾留裁判官に対する各自白についても同様に考えざるをえない。そうだとすると、前記四の1ないし5掲記の被告人らの各員面(ただし、Vの1・27員面を除く。以下各員面というときは同様。)及び各検面、V及びYを除く被告人らの(員)に対する各弁解録取書、Vを除く被告人らの(検)に対する各弁解録取書、Vを除く被告人らに対する裁判官の各勾留質問調書並びにZ作成の供述書(以下これらを被告人らの各自白調書という。)は、いずれも任意性を欠くものとして、その証拠能力を否定すべきことになるが、当裁判所としては、なお慎重を期してさらに被告人らの各員面及び各検面における自白の信用性について検討を加えることとする。

第三本件犯行と被告人らとを結びつける物的証拠の有無

被告人らの各自白の信用性を判断するに先だち、以下、原審及び当審で取り調べた証拠のうち物的証拠を検討し、それらが本件犯行と被告人らとを結びつけるものかどうか、また、被告人らの各自白の信用性に影響すべきものかどうかを判断する。

一 被害者に遺留された体液について

1  被害者の膣内の精液の血液型について

(一)  原審鑑定人松本秀雄作成の57・2・15鑑定書によれば、被告人らの血液型は、VがB型の分泌型、ZがAB型の分泌型、WがB型の分泌型、XがA型の非分泌型、YがAB型の分泌型であることが認められ、また、鑑定受託者四方一郎作成の5・31鑑定書並びに同人の原審及び当審各証言によれば、被害者A子の血液型はA型の分泌型であること及び体液(精液、唾液など)から血液型が判定できるのは分泌型のものであることが認められる。

(二)  右四方の右鑑定書並びに原審及び当審各証言によれば、同人は、被害者の膣内に精虫が存し、被害者は死に近く姦淫されたものと認めたが、精虫には血液型がなく、その判定はできないこと及び精液の混在する被害者の膣内容物の血液型は、本人の血液型と同じA型であり、これをもって精液の型とまでは決定できない旨の鑑定をしたことが認められる。

(三)  被告人らの各自白によれば、全員が姦淫して射精したというのであり、前記(一)における認定によればXを除く被告人らの精液からはB型又はAB型が顕出されるはずであることに徴し、精液が混合している被害者の膣内容物からB型ないしAB型の反応がなかったことは、被告人らが姦淫し、射精していない可能性が大きいことを示しているというべきである。なお右四方の原審及び当審各証言は、精液の量の問題があり、それが少ない場合にはB型又はAB型の分泌型であっても膣内容物からその血液型が出ない可能性もあるというのであるが、同証言も普通に射精された程度の量ならばその血液型が出ると考えてよいというのであるから、被告人らが射精しなかった可能性の方が射精をした可能性よりもはるかに大きいといえる。また、被害者の膣内には土砂が入っていたものであり、右四方の右各証言もその影響で精液中のB型が出なかった可能性も考えられないわけではないというのであるが、同証言によると、土砂は膣内の入口から半ばまで入っていて奥の方には達しておらず、その奥の膣壁からも膣内容物をガーゼで拭き取り、それを検査したというのであるから、土砂が入っていたことが全く影響なかったと断定できないだけで、その影響の可能性は極めて低いと考えられる。

2  被害者の着衣付着の精液の血液型について

(一)  技術吏員勝連紘一郎作成の鑑定書によれば、被害者が本件犯行当時着ていた赤色オーバーの裏地裾中央付近に手拳大位で二個所に体液様斑があり、これからは膣壁表面の扁平上皮細胞に混じって精子が確認され、その精液を含む液性部分(精液と被害者の膣内液の混合したものと考えられる。)の血液型はA型の分泌型である旨鑑定されている。

(二)  右被害者のオーバーに付着の精液を含む体液が本件犯行時に付着したものかどうか断定はできないが、一応これを肯定してよいと思われるところ、ここでもXを除く被告人らの前記血液型が顕出されていない。したがって、右体液中に混合する精液はXを除く被告人らの精液ではないといわなければならない。

3  被害者の乳房付着の唾液の血液型について

(一)  泉政德作成の1・24検査処理票によれば、同人は、被害者の左乳房及び右乳房を拭き取った各ガーゼ片を検査した結果、プチアリン反応によりその各ガーゼ片には唾液の付着の証明が得られ、その血液型はいずれもA型の判定を得たとされている。

(二)  右検査処理票の記載があるにもかかわらず、その作成者の泉は、当審証人として、右ガーゼ片はプチアリン反応により陽性を示したものであるが、汗などでもプチアリン反応を示すことがあり、唾液の量の問題もあるので、唾液の証明を得たというのは正確ではなく、厳密には唾液の付着が推定できるというべきである旨供述している。しかし、被告人らの各自白によれば、被告人らはいずれも被害者の乳を吸ったりなめたりしたというのであり、また鑑定受託者四方一郎作成の5・31鑑定書によれば被害者の左乳嘴に咬傷が存することが認められるので、被告人らの犯行であるとすれば、被害者の乳房には相当の量の唾液が付着していたものと考えなければならず、そうすると、当然ガーゼ片のプチアリン反応にその唾液の血液型が出るものとみなければならない。

(三)  したがって、被害者の乳房からA型だけが顕出され、B型あるいはAB型が顕出されてなかったことはXを除く被告人らが被害者の乳房を吸ったりなめたりした事実がなかったことを推認させるといわなければならない。

4  被告人らとの結びつきについて

以上1ないし3に説示したとおり、被害者の膣内の精液、オーバーに付着の精液及び乳房付着の唾液に関する各鑑定ないし検査の結果は、いずれも被告人らが被害者を姦淫した事実を裏付けるべき資料とならないというだけでなく、かえって、被告人らが被害者を姦淫した可能性が極めて少ないことを示しているものといわなければならない。

二 本件犯行現場に遺留された指掌紋、足痕跡、毛髪などについて

1  指掌紋、足痕跡などについて

(一)  (員)作成の1・29実況見分調書及び56・6・12捜査復命書並びに武内勝春の当審証言によれば、一月二二日警察の鑑識係員により本件ビニールハウスから指紋二個、被害者の遺留品から指紋三四個、掌紋一個を採取し、これらを鑑識した結果、対照可能なものは指紋八個のみで、その他は対照不能であり、右対照可能の八個の指紋と被告人らの指紋とは一致しなかったこと、また、同様に本件ビニールハウス内から三三個、同外の周辺の畑などから二〇個の足痕跡を採取し、被告人らが本件犯行当時履いていたとされる履物とを対照して鑑識した結果、一致したものがなかったことが認められる。被告人らの各自白によれば、V及びZは被害者の荷物を手にしたり調べたりしたというのであるから、その際指掌紋が付いて当然と考えられ、また、被告人ら五名のものが本件ビニールハウス内外を歩いているとすればその足痕跡が存しても当然と思われる(被告人らの各自白によれば、ビニールハウス内の足跡を消したというのであるが、その全部を消したとは考えられないし、またビニールハウスの外にはその足跡が残っていたと考えられる。)のに、前記のようにそれらが発見されていないのである。

(二)  また、技術吏員藤本宣國及び同木村重雄共同作成の鑑定書によれば、Z、Y、V及びXの着用していた衣服、履物などに付着している土砂と本件犯行現場付近の土壌との異同を鑑識した結果、その対象が可能であったZのつっかけ草履に付着の砂と本件犯行現場付近の土壌とは相異すると認められている(右草履以外の物については、土砂が付着していないか、付着していても微量のため本件犯行現場付近の土壌との異同を鑑識できないとされている。)。

(三)  右(一)及び(二)で説示したように、本件犯行現場及びその付近からは、被告人らの指掌紋、足痕跡が何一つ発見されず、また、被告人らの着衣、履物などに本件犯行現場の土壌が付着している証明もできないというのであるが、そのことは、被告人らと犯人との結びつきを積極的に立証できないというにとどまらず、むしろ被告人らが犯人であることにつき消極に解すべき事情になるものというべきである。

2  毛髪について

(一)  技術吏員瀧川昭二作成の3・14鑑定書によれば、被害者着用の赤オーバーに付着していた頭毛五本及び陰毛一本と被害者並びに被告人ら及びEの各頭毛、陰毛との異同につき肉眼的検査、血液型検査及び顕微鏡検査を実施して検討したところ、右オーバー付着の頭毛のうち一本がV又はWのものと推定するとの鑑定がなされ、また同技術吏員作成の3・20鑑定書によれば、被害者着用のパンタロン付着の頭毛一本及び高菜畑より発見された頭毛一〇本、陰毛三本につき前同様の検査をしたところ、右パンタロン付着の頭毛一本がWの頭毛に類似するとの鑑定がなされたことが認められる。しかし、右各鑑定書及び右瀧川の原審証言によれば、右各鑑定による同一性の判定はさほど厳格なものではなく所与の資料の中から同一性が推定されるものあるいは類似するものを選別したという域を出ないものであると認められる。また、原審鑑定人松本秀雄作成の57・4・3鑑定書(追加分)によれば、高菜畑より発見された毛髪、被害者着用オーバー付着の毛髪(いずれも前記瀧川の各鑑定における資料と同一の物)と被告人らの頭毛、陰毛との比較検討を顕微鏡接眼ミクロメーターによる検査により行ったが、異同の決定(個体の識別)は困難であるとの鑑定がなされている。

(二)  右によれば、被害者の着用の衣類に付着していた頭毛が、VあるいはWのものであると断定することはできないし、その可能性がないわけではないにしても、両名と本件犯行を結びつけるには程遠いものであるといわなければならない。

三 Yの手甲の傷について

(一) (員)角谷末勝作成の1・29実況見分調書(抄本)によれば、同日Yの右手背に二個所、左手背に三個所に本件犯行日ころの傷が治癒したと推定される爪痕とみられる傷痕が見分されたとされている。そして、鑑定受託者四方一郎作成の6・19鑑定書によれば、「Yの手甲について二月九日検査を施行し、(1)左手背の腕関節尺骨より三・〇センチメートルの部に〇・三×〇・二センチメートル大の瘢痕、その右一・五センチメートルの部に〇・三×〇・二センチメートル大の瘢痕、その右一・五センチメートルの部に〇・五×〇・四センチメートル大の瘢痕を認め、(2)右手背の中指根部に近く〇・六×〇・二センチメートル大の瘢痕、これより栂指根部の方に四・二センチメートルの部に〇・六×〇・三センチメートル大の瘢痕を認める。これらは、いずれも爪痕様の表皮剥脱の痂皮の剥離したあとの瘢痕と認められ、その色調及び性状よりみて、受傷後一五日ないし二〇日位を経過したものと推定される。右各瘢痕は、擦過作用によるものであるが、擦過面は爪のような形状を呈するものが適当であり、被害者の爪などによって掻かれたことによっても発起可能である。」と鑑定されている。(以下、右瘢痕を本件瘢痕又はYの手の瘢痕という。)

(二) 右の実況見分及び鑑定の結果は、いずれも本件瘢痕が被害者の爪による可能性を示喚している。そして、Yは、捜査官に対し、本件瘢痕が被害者にひっかかれた傷であることを自供している。しかし、Yは、公判廷では、右自供を覆して、本件瘢痕は、一月二一日の夜、Xと互いに両手指を組み合わせて力比べをしたときに生じたものである旨一貫して弁解し(Xも、公判廷で同旨の供述をしている。)、捜査官に対してもその旨弁解したが聞き入れられなかったと供述しているのである。

(三) そこで、さらに子細に検討してみるに、前記のとおり右四方の鑑定は、本件瘢痕が被害者の爪などによって掻かれたことによっても発起可能であるというのであるが、具体的な状況を想定したうえでの判断ではないから、一般的に爪などによる可能性があるというにすぎないものと解される。そこで、具体的に考えてみるに、本件瘢痕は、Yの両手の甲にあり、特に左手甲の三個所の瘢痕はほゞ横一列に並んでいるのであるが、被害者が、強姦あるいは殺害する際に暴れて引っ掻いたことにより、このような位置に集中して傷がつくか疑問である。また、右四方の前記鑑定書添付の写真によれば、右手甲の二個所の瘢痕は、ひっ掻いた傷痕というよりも、爪がくい込んだような傷痕であると見ることができるのである。さらに、右四方の原審証言によれば、被害者の爪がある程度伸びていて、あの爪なら本件瘢痕ができるというのであるが、同時に、自分は被害者の爪の検査をしておらず、鑑識の方で爪を切って調べていると思うというのである。そして、面谷尚也及び横田信共同作成の検査処理票及び右横田の当審証言によれば、同人らは、一月二四日、被害者から解剖時に採取された両手の爪を検査した結果、右栂指爪・示指爪に血痕少量付着(ただし、少量のため人血付着の証明が得られなかったとする。)があり、左示指爪付着の土砂中に微細な赤色化繊維細片一点が認められ、また全部の爪に灰黒色の微細な土砂極く少量が付着していたとの判定を得たことが認められるにすぎない。そして、右各証拠によれば、被害者の爪は、いずれもほとんど伸びておらず、鋏で採取することが困難なほど短い状態であったことが認められる。これらを総合してみると、本件瘢痕が本件犯行の際被害者の爪によって発生した傷痕であるとするには余りにも疑問の余地が大きいといわなければならない。

(四) これに対し、当審公判廷において、Yの弁解する同人とXの力比べをしたときの組手の状況について検証した結果によれば、YとXは互いに右手と左手、左手と右手を交互に指を入れて組み合わせ、Xが力を入れて、Yの両手をその手甲の方へ押し曲げると、Xの指先がYの手甲に当たって押し込む状態になること、そして、その指先は、多少のずれはある(指先に力を入れる場合の伸縮の状況により指先の位置がずれるものと思われる。)ものの本件瘢痕と類似した個所に当たることが認められた。

(五) 以上検討の結果本件瘢痕は、本件犯行の際、被害者の手の爪により生じた傷痕ではなく、むしろ、Yが弁解するように、同人がXと力比べをした際同人の爪によって生じた傷痕である可能性が大きいと考える。

四 カッターナイフについて

本件証拠としてカッターナイフ(符号1)(以下本件カッターナイフという。)が存在する。これは、Zが、1・27員面(角谷末勝)において、Vが被害者にカッターナイフを突き付けた旨供述したことに引き続き、Vを含む他の被告人らも同様の各供述をしていたところ、Vが、被害者に突き付けたカッターナイフは、本件犯行の二日くらい後、自宅の奥六畳の間の勉強机の下にある道具箱に入れた旨供述した(2・1員面)ため、司法警察員が、二月二日Vの自宅を捜索して、六畳の間の机の最上段の引出しの内にあったのを発見し、差押えたものである((員)作成の2・2捜索差押調書)。しかし、本件カッターナイフは、Vが2・1員面で供述し、図面に書いた物とはかなり異なるものである。すなわち、Vは、2・1員面では、本件犯行に供したカッターナイフは刃の長さが一〇センチメートルくらいある普通のカッターナイフに比べると少し大きめのもので、柄が黄色のプラスチックである旨供述し図面を書いていたが、本件カッターナイフは全体が小型で右図面とは型が異なり、柄の長さ約一二センチメートル余り、柄の幅が最大で二センチメートル弱で、刃は折れ刃式でその全部を出しても五センチメートルに満たないものであり、柄はプラスチックではなく金属製で、その先端部分に僅かに黄色のプラスチックが付いているものである。そして、本件カッターナイフは、その実物を見れば分かるように、人を脅すのにさほど威力のあるものとは思われないものである。Vは、2・12員面において、自分が記憶していて2・1員面で述べたものと型が違うとしながら、自分の記憶違いであり、本件カッターナイフが自宅から出てきたものであれば本件犯行に使用したものに間違いない旨供述し、また、2・17検面においては、さらに明確に、本件カッターナイフは本件犯行に使用したものである旨供述しているが信用することができないというべきである。そして、ほかに、本件カッターナイフが本件犯行に使用されたものであることを証明すべき証拠はない。したがって、本件カッターナイフの存在は本件犯行と被告人らとを結びつける証拠とはならないというべきである。

五 結び

以上一ないし四に説示したように、本件においては、捜査段階で収集された物的証拠には、本件犯行と被告人らとを結びつけるべきものが存しないのであるが、その不存在は、本件犯行が被告人らによるものであるかどうかを認定するにつき、積極、消極いずれの情況証拠にもならないというものではなく、消極的情況証拠になるものというべきである。すなわち、本件犯行が被告人らによる犯行とされているのに、被害者の膣内の精液及び着衣付着の精液から当然顕出されると考えられるXを除く被告人らの血液型が顕出されず、また本件現場に当然遺留されたと考えられる被告人らの指掌紋、足痕跡が発見されないことは、被告人らが本件犯行を犯していないのではないかという疑いを強く抱かせるものである。本件において、捜査官が右のような物的証拠が存しないことにつきどのような疑問を持ったか明らかでないが、その物的証拠が存しないことから、勢い被告人らから各自白を得ることだけに熱心になったことは容易に推測できることである。それだけに、被告人らの各自白の信用性を判断するに当たっては、より一層慎重にならざるをえない。

第四被告人らの各自白の信用性

前記第一の二、四及び五に説示したところによれば、被告人らは、いずれも、本件で逮捕される直前あるいはその後間もなく(Vのみは逮捕から四日目に)本件犯行を自白し、その後も捜査段階では一貫して自白を維持していた(もっとも、Yのみは検察官に一度否認したことがあるがすぐにそれを撤回している。)こと、その各自白は具体的詳細であり、しかも、おおむね本件犯行現場及びその付近の状況並びに被害状況などの客観的事実に符合していること、また、その各自白が相互に大筋において一致していることが認められ、これらにかんがみると、被告人らの各自白は信用すべきもののようにみえる。しかし、本件犯行と被告人らとの結びつきについては、前記第三において判断したように積極の物的証拠が存せず、かえって消極の物的証拠とみるべきものが存し、積極証拠としては被告人らの捜査段階における各自白しかないのであるから、それらの信用性については、さらに子細に検討しなければならないと考える。そこで、以下その検討を加えることとする。

一 いわゆる秘密の暴露について

被告人らの捜査官に対する各自白は、いずれもZが緊急逮捕前に自白した1・27員面(角谷末勝)から始まるのであるが、Zは、右員面において、すでに、「被告人らは、一月二一日夜カーミンで女性を輪姦しようと相談して、午後九時ころ、自転車三台にZとV、YとX、W一人に分かれて乗り、貝塚駅前から二色の浜の海水浴場に行って女性を物色した後、二色の浜駅の方に向かい、途中ビニールハウスで輪姦することを決め、午後一一時すぎころ本件ビニールハウスに着いた。そのころ、Vがカッターナイフで脅すと言っており、見るとそのカッターナイフは長さ二〇センチメートルくらいのものであった。本件ビニールハウスの入口を探してみると、その東南側に一個所破れているのを見つけたので、Zがそこから中に入り、南東側付近にある戸を内側から開けてほかの四名を中に入れた。約三〇分くらいした午後一一時四〇分ころ、二色の浜駅の方から近木川の方に向かって女性が歩いて来たので、VとYが出て行って、Vが前記カッターナイフを同女に突き付けて脅し、Yが同女の荷物を畑の中に放り投げ、二人で同女を畑の中に連れ込んだ。そして、畑の中で同女にシャツ、ズボン、パンティ等を無理やり脱がせたうえ、同女を本件ビニールハウスの中に連れて来た、Zがよく見ると同女はEの嫁さんであった。皆で暴れる同女を押えつけて、V、Y、X、Wの順で順次姦淫した。同女が帰してと言って立ち上がったとき、Vが『殺してまえ』と言いながらYと二人で同女の首を絞めて殺した。Vが『死体を埋めてしまえ』と言ったので皆で土をかけ、Xが同女の口や陰部に砂を埋め込んだ。Vは畑の中から同女のカバンや紙袋を持って来て中を調べ、カバンの中に一〇センチメートル位の緑色のガマ口を見つけ黙ってズボンの右ポケットに入れた。その後、VはYに同女の荷物を道路の方へ持って行かせ、自分らにビニールハウスの中の足跡を消すように指示し、皆でその足跡を消したうえ、ビニールハウスの出入口から揃って逃げて出て、Zがビニールハウスの戸を外から閉めた。その後、被告人らは、いったん二色の浜駅前に出て、自転車で貝塚駅前に帰った。」旨供述している。右供述は、前記第二の一において認定したZのEに対する自白と大筋は同じで、これを敷えんしたものであり、Z自身の姦淫行為については述べられていないが、その点を別にすれば、その大筋は、その後の被告人らの各自白によってほぼ追認されているところである。

そこで、Zの1・27員面(角谷末勝)における右供述にいわゆる秘密の暴露が含まれているかを考えるに、警察は、一月二二日から本件犯行につき捜査をして同月二六日夜までには、本件犯行に関係あるとみられる現場及び周辺の状況並びに被害者の被害状況などをほぼ把握していたと思われ、また、Eは、前記認定のように被害者の内縁の夫であり、本件犯行を知ってから犯人の探索をしていたものであること、及び、同人の原審証言によれば、同人は、Zを追及して自白させたとき、すでに、本件ビニールハウスの東側と北側のビニール壁に穴が開いていたことを知っていたことが認められることに徴すると、Eにおいても、右現場の状況などを相当に知悉していたと思われる。そうだとすると、Zが、一月二六日にEあるいは警察に対し、本件犯行現場の状況あるいは被害の状況につき客観的事実に符合する事実を自白したとしても、その自白の内容がZしか分からなかったという事実であって、後にそれが証拠による裏付けが得られたものを含むものでないかぎり、いわゆる秘密の暴露としてその信用性を認めるべき事情とはなりえないところ、関係証拠に照らし、Zの前記1・27員面(角谷末勝)における自白のうちいわゆる秘密の暴露であるかどうか問題となりうると考えられるのは、Vが本件で窃取したというがま口についての供述であるので、これについて考察することとする。

被害者の母のG子の1・31員面によれば、被害者は、本件犯行当時、がま口を所持していたことが認められ、また、(員)作成の1・27実況見分調書によれば、被害者の遺留品の中にがま口がなかったことが認められる。そして、角谷末勝の原審(第二〇回公判)証言によれば、警察は、一月二七日ころ、すでに右各事実を知悉していたことが窺われるところ、ZがEに自白した当時、がま口の被害の事実が犯人及び警察以外に知られていない事実であったとすれば、ZのEに対する財布(がま口とまでは述べていない。)についての供述は、秘密の暴露ということができる。しかし、EがZに自白をさせた当時、財布(あるいはがま口)の被害を知っていたことを否定できない。すなわち、Zは、原審(第一〇回公判)において、Eの方から財布がなかったかと聞いてきたので、大体で(適当にという意味)Vが取ったと述べた旨供述していること及びEは被害者の内縁の夫として被害者の所持する財布(あるいはがま口)がどのような物であるかを知っていて警察からその被害(遺留品に存しないこと)を聞いていた可能性があることに微するとEが被害者の財布(あるいはがま口)の被害を知っていてZに問い質したとみる余地が十分にある。したがって、ZのEに対する財布に関する供述が秘密の暴露であるとは認められない。

なお、Vが、窃取したがま口は近木川に捨てた旨供述し、その場所を図面に記載した(2・10員面((右図面添付)))ため、それに基づき捜索がなされたことが証拠上認められるが、その発見に至っておらず、したがって、Vの右供述は秘密の暴露には当たらないものである。

二 被告人らの各員面及び各検面における供述の変遷、くい違いなどについて

被告人らは、いずれも公判廷で、自分らは本件犯行を犯していないのに捜査段階で自白したものであるが、それは、捜査官からその想定した事実を告げられて誘導され、あるいはその事実を押し付けられ、また、自分で適当に想像して供述し、さらに供述の説明として図面を作成したものであり、他の被告人らとくい違った供述をすると、その供述を変更させられ、他の被告人らの各供述と合致するよう供述させられたなどと弁解している。そこで、被告人らの各員面及び各検面を子細に検討した結果、被告人らそれぞれの各員面及び各検面における供述には前後多数の変遷、変転があり、また、その供述が他の被告人らとくい違っている点が多数あることなどが明らかになったので、以下そのうち主なものを取り出して指摘することとする。

1  輪姦の順序の取決めに関する供述

本件犯行前カーミン付近から出発するに際し、被告人らが輪姦の順序を決めたかどうかにつき、Vは、他の被告人らに対し、「俺が一番に行くから、後はお前らで決めや。」と言ったら、その後同人らは何か話し合っていたが、じゃんけんをしたかどうか知らない旨供述し(2・12員面)、X及びYは、いずれも、Vに右のように言われて他の被告人ら四名でじゃんけんをして決めた旨供述し(Xの2・3員面、2・6検面、2・13検面、Yの2・2員面、2・5検面、2・11検面)、Z及びWは、いずれも、じゃんけんをして輪姦の順序を決めたことはない旨供述している(Zの2・12検面、Wの2・13検面)。女性を捕えて輪姦しようと企てた被告人らが、じゃんけんをしてその順序を決めたかどうかということをたやすく忘れるとは考えられないところであるから、被告人らの右各供述のくい違いは不自然であるといわなければならない。また、Yが、いったんは、じゃんけんでY、X、W、Zの順が決まった旨供述し(2・2員面)ながら、後にXとWのどっちが三番でどっちが四番か(Vを含めた順番)はっきり覚えていない旨供述している(2・11検面)こと、及び、Xが、当初、被害者に対し強姦した順序は、一番目にV、二番目か三番目にXで、次にWとYと供述していた(1・27員面)のに後に、順番はじゃんけんで、Y、X、W、Zと決まった旨明確な供述をしている(2・3員面)ことも不可解である。Yが、公判廷において、「刑事がじゃんけんで決めたんやろと聞いてきたので、やむなくそれを認めた。」旨供述していることが虚偽であるとはいえないと考える。

2  使用した自転車に関する供述

被告人らは、自転車三台で貝塚から本件犯行現場へ出掛けたというのであるが、その使用した自転車に関するZ及びXの供述には、次のような変遷がみられる。

(一)  Zは、自分が本件犯行現場へ乗り出した自転車につき、当初、一月二一日午後八時ごろ自分の自転車でカーミンに行った旨供述し(1・27員面((角谷末勝)))、また、同日夕方W、Yとともに電車で泉佐野駅から貝塚駅に向かったが、途中自分だけ二色の浜駅で下車し、自宅から自転車に乗ってカーミンに行った旨供述していた(1・27員面((北川幸夫)))ところ、後に供述を変え、同日夕方電車で泉佐野駅から貝塚駅に行ったが、自分の自転車はいつも貝塚駅前の大和パチンコ店に置いていたので、これに乗って出掛けた旨供述した(2・1員面、2・2員面)のに、再び、同日電車を途中下車して自宅から自転車でカーミンに行った旨の供述をし(2・8員面)、それをまた、同日泉佐野駅から貝塚駅まで電車で行ったが、自転車は前日から大和パチンコ店の前に置いていた旨供述するに至っている(2・12検面、2・15員面、2・16検面((三枚綴の分)))。Zは、2・15員面では、右供述が変遷したことにつき感違いしていたというのであるが、三人で電車に乗り、一人だけ自転車を取りに帰ったというようなことを一度ならず、二度も感違いするとは到底考えられない。本件犯行現場への出発にあたりZの自転車がカーミンの近くにあったとの事実に符合させようとして捜査官が誘導してZの供述を変えさせた疑いが濃厚である。

(二)  Xは、被告人らが本件犯行現場へ乗り出した自転車につき、当初は、誰の自転車とも言わず、二、三台の自転車に分乗した旨不明確な供述をしていた(1・27員面)ところ、次いで、V、Y、Wがそれぞれ大和パチンコ店の方から自転車を用意してきた旨供述し(2・3員面、2・9員面)、さらに、自転車を取りに行ったのは、自分とW、Zの三人であり、自分は大和パチンコ店付近で盗んできた旨供述を変えた(2・11員面、2・13検面)のであるが、その供述を変える理由については何ら述べられていないので、その供述の変化は不自然というほかない。

3  自転車の相乗りに関する供述

被告人らが本件犯行当日カーミンから二色の浜まで自転車三台で行った際の相乗り状況につき、Z、V及びXの各供述によれば、Zの自転車にVが、Xの自転車にYがそれぞれ相乗りし、Wは一人で自転車に乗ったというのである(Zの1・27員面二通、Vの1・30員面、Xの2・3員面、2・9員面)。これに対し、Yは、当初、自分がZの自転車を運転して同人を乗せ、Xの運転する自転車にはVが乗り、Wは同人の自転車に一人で乗った旨供述し(1・27員面)、後に、自分はXの乗った自転車に乗せてもらった旨供述を変更した(2・2員面)。また、Wは、当初は、Xの自転車に乗せてもらったように思うが、あるいは違うかも分からない旨供述していた(1・27員面)が、後に、自分は一人で乗った旨供述を変え(2・9員面)、さらに、自分はXの乗った自転車の荷台に乗った旨供述している(2・16員面)。被告人らの右各供述をどのようにみるべきか。Z(二通)、Y、Wの各1・27員面ではそれぞれくい違った供述をしていたものであるが、その後、Zの右供述に他の被告人の各供述が符合してきたのは、捜査官の誘導によるものであるとの疑いを持たざるをえない。Wの2・16員面は、捜査官の手落ちで再び他の被告人の各供述とくい違ったものではないかと思われる。

4  本件ビニールハウス内へのZの侵入に関する供述

Zが本件ビニールハウス内へ出入りした状況について、Z及びYの各供述は次のとおり変転している。

(一)  Zは、自分が最初にビニールハウス内へ侵入した状況につき、当初の供述では、ビニールハウスの東南側の個所でビニールに穴が開いていたので、そこから入り、南東側付近にある戸を内側から開けて他の四人を中に入れたとしていた(1・27員面((角谷末勝)))のであるが、同日供述を変更し、ビニールハウスの東側中ほどのビニールを破って中に入り、開き戸を開けに行ったが開かないので、右破った穴から外に出て外から戸を開けた旨供述し(1・27員面((北川幸夫))、2・2員面)、さらにその後、ビニールハウス東側中ほどに穴を開けて入り、南側の戸を中から開けようとしたが開かず、北側に戸があるかも知れないと思って行ったが戸が見つからず、北側のビニールを破って外へ出て南側に回って戸を開けた旨供述している(2・9員面、2・16検面)。

(二)  また、Yは、V、W及びXがいずれも供述していないのに、ただ一人Zが本件ビニールハウス内に侵入した状況を供述している。すなわち、当初は、Zがビニールハウスの東南側付近に直径約五〇―六〇センチメートルの破れ穴を見付けて「俺ここから入って開けたるわ。」と言って入り、南側の戸を中から開けてくれた旨供述した(1・27員面)が、次には、Zはビニールハウスに行き東側のところで何かバリバリという物音をたてて、しばらくして元の道路のところに帰って来て私らに開けてきたと言った旨供述した(2・2員面)うえ、さらに、本件犯行後逃げるときに、Zがビニールハウスの北側のビニールを破って出た旨供述していた(2・3員面)にもかかわらず、後には、Zが、ビニールハウスの東側をバリバリ両手で破り頭の方から入ったのがよく見えたが、同人はハウス北側を破って出て来て、南側の入口を外から開けた旨供述し(2・8員面((図面添付のもの))、2・13検面)、Zは本件犯行後ハウスの南側の入口を締めて出た旨供述している(2・11検面)。

(三)  Z及びYの右各供述の変転は余りにも極端である。Zの2・9員面では、その供述の変遷につき、前の調書でハウスから外に出るとき最初に破った穴から出たと言っていたが、現場に案内して行ったとき間違っていることに気付いたので訂正する旨供述するが、Z立会の実況見分の際にはすでにビニールの破れた跡はなかったことが証拠上明らかであって現場で気が付いたということは不自然である。およそ、ビニールを破って出入りしたことにつき記憶が変転するということは考えられないのであって、Z及びYの右各供述の変遷は、捜査官において、本件ビニールハウスの戸が外から閂が掛けられていて内側から開けられないという客観的事実に合わせようとし、またビニールの破損個所が東側だけでなく北側にも存することからZが二個所とも破ったことにつじつまを合わせようとして、Z及びYにそれぞれ供述を変えさせたとみても的外れではないと思われる。

5  本件ビニールハウスに被告人らが入った状況に関する供述

VとYが、被害者を捕まえる前に、他の被告人らとともに本件ビニールハウスに入ったかどうかについて、被告人らの各供述は前後変遷し、また、相互間にくい違いがみられる。

(一)  Zは、被告人らは五名とも本件ビニールハウスに入り、Vが、Z、W、Xにその中で待機するよう指示し、Yとともに外に出た旨供述していた(1・27員面二通、2・2員面)が、次いで、VとYが、ハウス手前の畦道で他の被告人らに「お前らハウスの中に入って見張っとけ」と言い付けて、畦道から道路の方に出て行った旨の供述に変え(2・9員面)、再び最初のとおり、Vも本件ビニールハウス内に入ってから、Yと出て行った旨供述している(2・12員面)。

(二)  Vは、本件ビニールハウスの入口付近まで行ったが、中には入らなかった旨の供述を一貫してしている(1・30員面、2・6検面、2・9員面、2・12員面、2・15員面、2・14検面)。

(三)  Wは、当初は、VとYが被害者を捕まえたとき、他の被告人らも道路にいて、それまでは被告人らは本件ビニールハウスに入っていなかった趣旨の供述をしており(1・27員面、2・6検面)、他の被告人らの各供述とは全く異なっていた。ところが、後には、被告人らが五名とも本件ビニールハウスに入り、Vが、W、Z及びXの三人に中で待機するよう告げてYと道路の方に行った旨供述し、かつ、本件ビニールハウスを犯行場所に決めた経緯についても詳細に供述していた(2・9員面、2・13員面)が、最後には、本件ビニールハウス内で犯行することになって、Vの指示で、X、Z、Wがハウス内で待機することになり、ハウスの方に行って入った旨供述している(2・16員面)。Wは、右供述の変化につきその理由を全く述べていないのであり、中間の供述が詳細であるにもかかわらず、なおそれが変遷していることは不可解である。後に変更するようなことをどうして詳細に供述することができたのであろうか。右の例は、供述が具体的詳細であっても信用できない場合のあることを示している。

(四)  Xは、Vが先に本件ビニールハウスの出入口から中に入った旨供述し(1・27員面)、次いで、Vが一番先に本件ビニールハウスに入り、続いてY、X及びW、Zの順で入った旨その入った順序まで供述している(2・9員面)。他の被告人らは、右のような供述は一切していないのに、どうしてXだけが右のように順序まで明確に述べているのか了解しがたい。右の順序が被告人らの各自白による強姦の順序と符合していることが奇妙である。

(五)  Yは、当初、被告人ら五人が揃って本件ビニールハウスの中に入り、そこでVがカッターナイフを出してYに対し「これで脅したる。お前俺と一緒に来い。」と言い、他の被告人ら三名にはハウスの中から見張りをするように言い、ビニールハウスの中で道路を通る女がいないか待っていると被害者が歩いて来たので飛び出した旨供述し(1・27員面)、次いで、被告人ら五人揃ってビニールハウスに入ったが、VとYはすぐ外に出たように供述していた(2・2員面)が、後には、ビニールハウスの外で、VとYが女を捕まえるので、他の被告人らはハウス内で見張るということになり、三人がハウスの中に入って行った旨供述を変えている(2・8員面((図面添付のもの)))。Yは、右供述の変遷について理由を述べていない。しかし、同人の1・27員面は、単に被告人ら五名がビニールハウスに入った旨供述しているだけでなく、その際におけるVの言動など具体的詳細に述べているのであり、これが思い違いであったなどとは到底考えられない。

6  被害者を捕まえる直前の行動に関する供述

VとYの被害者を捕まえる直前の行動につき、Vの供述は、当初から一貫して、自分とYの二人が路上にいると被害者が通って行ったので、二人で後を追い掛けて捕まえたというのであるが、Yは、最初、ビニールハウス内で待っていると被害者の歩いてくるのが見えたので、自分が先に走り出て道路に行き、被害者に声を掛けた後、Vが後から走ってきた旨供述し(1・27員面)、次には、自分とVがビニールハウスを出て、被害者が歩いてきたとき、Vが畑の中に隠れ、自分が道路上で被害者に声を掛けたが無視されたので、Vに合図すると同人が飛び出してきて同女を捕まえた旨供述し(2・2員面、2・5検面)ながら、さらに、Vと自分が二人で道路に立っていると前を被害者が通ったので、二人で付いて歩き、左右から同女を捕まえた旨供述している(2・8員面((図面添付のもの))、2・11検面)。そして、Yは、2・15検面(五枚綴の分)において、2・5検面でVが隠れていた旨述べたのは、二人で付けて行って捕まえたことが思い出せなかったので、いい加減なことを言った旨供述している。しかし、Yは、2・8員面(図面添付のもの)において、Vが隠れていたとする位置を図面に記載して供述しているのであり、これが虚偽であるとすると、2・8員面(図面添付のもの)全体の信用性にも影響することにならざるをえない。

7  Vのカッターナイフ所持及びこれによる脅迫に関する供述

Vがカッターナイフを所持していたこと及びこれによって被害者を脅迫したことにつき、被告人らの各供述は、前後に変遷があり、また他の被告人の供述とくい違っている。

(一)  Vがカッターナイフを所持しているのを見た時期について、Zは、初めは、被告人らが二色の浜駅からビニールハウスに着いたころ、Vが「俺カッターナイフを持っている。これで脅すぞ。」と言っていた旨供述していた(1・27員面((角谷末勝)))が、その後、Vが被害者をハウスに連れ込んだとき、背中に突き付けていたのがカッターナイフであることが分かった旨の供述に変えた(2・2員面、2・15員面)。また、その間、Zは、Vが突き付けたのがカッターナイフである旨供述しないで、「ナイフのような物」というあいまいな供述すらしている(2・12検面)。そして、Yも、被害者を捕まえる前、被告人ら五名がビニールハウスに入ったとき、Vが、長さ一五センチメートル位のカッターナイフをズボンの後ろポケットから出して、「これで脅したろ」と言った旨供述していた(1・27員面)が、後には、Vが被害者の背中に突き付けたとき初めてカッターナイフを見た旨供述している(2・15員面)。Z及びYの右各1・27員面における供述がどうしてその後変化することになるのか不思議である。捜査官が、Vがカッターナイフを所持していたとするために、Z及びYにこのような各供述をさせたが、他の被告人らからはこのような供述がなく、またいずれにしてもVが被害者にカッターナイフを突き付けた旨を供述していたことから、Z及びYの右各供述を変えさせたと疑う余地が十分にある。

(二)  被告人らの各自白によれば、被害者にカッターナイフを突き付けたのはVということになるが、そうでない供述もある。すなわち、Wは、当初、Yが市道でいきなりカッターナイフを被害者に突き付けた旨供述した(1・27員面)が、次いで、VかYのどちらかがカッターナイフを被害者に突き付けていた旨供述し(2・9員面)、最後は、ナイフを持っていたのは、VかYか分からないが、多分Vが被害者に見せて脅かしていたと思う旨供述している(2・13検面)。また、Xも、警察官に対しては、VかYかどちらかが手にカッターナイフのようなものを被害者に突き付けていた旨供述し(2・3員面、2・9員面)、他方検察官に対してはVがナイフみたいなものを被害者に突き付けていた旨供述している(2・6検面、2・13検面)。このように実行行為者を変更し、あるいは特定化していく供述の変遷をみると、捜査官が他の被告人らの各供述に合致させようとして供述を変えさせている状況が浮かび上がってくるように思われる。

(三)  次に、Vがカッターナイフを被害者の身体のどの部位に突きつけたかにつき、被告人らの各供述は、区々である。V本人ですら、顔に突き付けたという供述(1・30員面、2・1員面、2・3員面)から、身体に突き付けたというあいまいな供述(2・6検面)になり、そして、腰に突き付けたという供述(2・9員面、2・14検面)に変っている。Yは、背中に突き付けた旨供述していた(1・27員面、2・5検面、2・8員面((図面添付のもの)))が、後には、脇腹の方に突き付けた旨供述を変えている(2・11検面)。Zは、背中に突き付けた点については一貫しているが、それを見た時点について、Vが道路で最初に被害者を脅したときという供述(1・27員面((角谷末勝)))から、Vが被害者をビニールハウスに連れ込むときという供述に変わっている(2・2員面、2・12検面、2・15員面)。また、前記(二)のように突き付けたのがVかYかという点があるが、これを別にすれば、Xは、腰に突き付けた旨供述をし(2・3員面、2・6検面、2・9員面、2・13検面)、Wは、横っ腹に突き付けた旨供述し(2・9員面)ながら、後には、被害者に見せびらかしていた旨供述している(2・13検面)。

(四)  以上のとおり被告人らのVがカッターナイフを所持し、これで被害者を脅迫した状況に関する各供述は、前後に変遷があり、また他の被告人の供述との間にくい違いがある。右のような事柄につき、被告人らの間において供述のくい違いがありうることは認めるとしても、同じ被告人の供述がどうしてこのように変転するのか全く理解困難である。前記第三の四で説示したように本件カッターナイフが本件犯行の用に供されたとすることの疑問があることと併せ考えると、被告人らのVがカッターナイフを所持し、それで被害者を脅した旨の各供述の信用性には多分の疑いがあるといわなければならない。

8  被害者をビニールハウス内に連行した状況に関する供述

V及びYが被害者を捕まえてから本件ビニールハウスに連行するまでの状況に関し、被告人らの各員面及び各検面における供述は、細部において変遷があり、被告人ら相互間に不一致があるが、それはさて措くとしても、供述の変遷が余りにも顕著すぎて看過できないものを指摘することとする。すなわち、Wは、VとYが被告者を畑に連れ込んだ後、同女が倒れてもみ合いとなり、これを見て加勢しようとしたがVが怒ると思ってハウス内で待っていたところ、VとYが同女を引き起して畦道に上がって連れて来たので、その途中まで迎えに出た旨供述していた(2・9員面)が、後に、その供述を変えて、被害者が畑の中で逃げたので自分も捕まえなければいけないと思って、ビニールハウスを飛び出して逃げる被害者の方へ走って行ったところ、VとYが被害者を捕まえてズボンやパンティを脱がせ、その時自分も被害者の陰部に触ったが、Vらはその場では姦淫しないで被害者をビニールハウスの方に連れて行った旨供述し(2・13検面)、さらに、押収されている被害者のパンタロンを示されて、それが、VとYが畑の中で逃げた被害者を捕まえたとき、自分が加勢して脱がしたパンタロンに間違いない旨の供述をし(2・15員面)ながら、最後には、自分は、畑の中で逃げた被害者のところへ行き、Vらがパンタロンを脱がせたとき、そばにいて陰部を触ったように思っていたが、今日現場に行って考えてみたら、畑の中までは行っていないような気がするので、被害者の陰部に触ったのは、Vらが下半身裸の被害者をビニールハウスのそばに連れて来たときではないかと思う旨供述している(2・15検面)。しかしながら、右のように被害者のパンタロンを脱がせたときそばにいたこと及び証拠物のパンタロンを示されてそのときのものに間違いないことまで供述しながら、後に現場を見てそれが思い違いであったことに気付くということがありうるか極めて疑問である。2・13検面における右供述が、他の被告人らの捜査官に対する各供述とくい違っていることに徴すると、2・15検面の右供述が他の被告人らの各供述に合致させるためになされたものであるとの疑いを拭い去ることはできない。

9  姦淫の順序に関する供述

被告人らが被害者を順次輪姦したときの状況につき、被告人らの各員面及び各検面における供述には、多々変転があり、各被告人間の不一致も指摘すれば数多くあるが、ここでは軽視しがたい供述の変遷だけを取り上げることにする。被告人らの各自白によれば、最終的には被告人らの姦淫の順序は、V、Y、X、W、Zということで一致している。しかし、W及びXは、いずれも緊急逮捕されたときにはそのように供述していなかったのである。Wは、1・27員面において、V、Y、W、X、Zの順に姦淫したと思うと述べ、2・6検面でも同様の順序であった旨供述している。それが、2・9員面においては、急に前の供述を覆し、その順序をV、Y、X、W、Zとして、各被告人のそれぞれの姦淫の状況を具体的に供述しているのである。また、Xも、1・27員面においては、一番目にV、二番目か三番目にX、次にWとYで、Zが姦淫をしたかどうか分からない旨供述していたのに、2・3員面では、姦淫の順序をあらかじめじゃんけんで決めた旨述べるとともに、実際の姦淫の順序もじゃんけんで決まったとおりで、V、Y、X、W、Zであった旨供述している。W及びXの当初の各供述がどうして理由も明確にされないまま右のように変遷するのか、前記1で説示した被告人らの輪姦の順序の取決めに関する各供述の変遷、くい違いとともに疑問のあるところである。

なお、Yは、当初、姦淫の順序につきV、Y、X、W、Zの順であった旨供述し(1・27員面)ながら、次に、Zが姦淫後、Vが「俺もう一回いける。」と言ってすぐズボンやパンツを下げて約一〇分くらい腰を使って姦淫した旨供述した(2・3員面、2・5検面)が、後にこれを取り消し、よく思い出してみたら、Vがもう一回できると言ったので姦淫したように思った旨供述している(2・15検面((五枚綴の分)))のであるが、この点については、Yが、公判廷において、「(捜査官から誘導されて)お前ら若いから二回ぐらいやってるやろうということでV君がもう一回やったというようなことに(調書が)なりました。」と供述していることに真実性を認めざるをえないのである。

10  被害者殺害の契機に関する供述

被告人らの最終的に合致した各自白によれば、前記第一の五記載のとおり、Vが被害者殺害を決意して「いてもうたれ、殺せ。」と言ったのは、Zが自らの姦淫後に他の被告人らに被害者を知っている旨告げたことが契機となったというのであるが、被告人らのそれまでの各自白にはこれと異なるものがある。

(一)  Zは、最初、Vらが被害者を本件ビニールハウス内に連れ込んできたとき、よく見るとEの嫁であった旨供述した(1・27員面((角谷末勝)))が、同日、右供述を変更し、自分が最後に姦淫したとき、被害者がEの嫁であると知った旨供述し(1・27員面((北川幸夫)))、その後も同旨の供述をしている(2・3員面、2・6検面、2・12検面、2・14検面)。しかし、関係証拠によれば、本件犯行現場は人の識別をしうる程度の明るさであったことが認められることに徴すると、Zが被害者が誰かを自分が姦淫した後まで気付かなかったというのは不自然である。Zは、2・9員面では、姦淫しているとき、被害者が顔を右や左に振ったりしていたのではっきり顔が見えなかったが、姦淫後同女が座った格好になったので顔が分かった旨供述するが、にわかに措信できない。また、Xは、Zが姦淫しているとき皆に聞えるように「この女、知っている奴や。」と言った旨供述した(2・3員面)が、次いで、Vらが被害者を本件ビニールハウスに入れたとき、Zが「知っている顔や。」と言ったと思うが、そのことについて他の被告人らは何も言わなかったと思う旨の供述に変え(2・6検面)、その後再び、Zは、姦淫しているときか、終ったときに「知っている顔や。」と言った旨供述している(2・13検面)。Z及びXの右各供述の変遷の理由は明らかでないが、その各変遷により他の被告人らの捜査官に対する各供述に一致するに至っていることは明らかである。

(二)  次に、Vが殺害の意思を告げた契機について、Zは、当初、被害者が立ち上がるとVが大声で「こいつ殺してしまえ。」と言った旨供述するにとどまり(1・27員面((角谷末勝)))、Wも、当初は、被告人らの強姦が終わると、Vが後でバレたら大変なことになると思ったのか、「殺してしまえ。」と言った旨供述するだけであり(1・27員面)、また、Xは、当初、被告人らが姦淫後思い思いに手で被害者の身体を弄んだために同女が抵抗して暴れ、声を出してもがくので、皆で同女の首や口を必死で押え、Vが「殺ってしまえ。」と言った旨供述していた(1・27員面)。ところが、その後、Z、W及びXはともに、Zが姦淫後被害者を知っていると告げた旨の供述をするとともに、それを聞いてVが殺せと言った旨供述するに至っているのである(Zの2・3員面、Wの2・6検面、Xの2・3員面)。

(三)  Vは、当初から、Zが最後に姦淫した後、被害者を知っていると告げたので、犯行の発覚をおそれて、自分が殺せと言った旨供述している(1・30員面、2・6検面)ところ、Z、X及びWの前記(一)及び(二)の各供述の変化は、Vの右1・30員面に一致させようとした捜査官に誘導された結果であるという疑いが大きいと考えられる。

11  被害者殺害の実行行為に関する供述

被告人らのうち、誰々がどういう順序で被害者の首を両手の指で絞めたかにつき、被告人らの各自白は、いずれも変遷し、また、各被告人間にくい違いがある。

(一)  Zは、当初、VとYが一緒に被害者の首を絞めた旨供述した(1・27員面((角谷末勝)))が、次には、Vが被害者に跨がるようにして首を絞めたので、私も同女の左肩の方からVが絞めている手の上から絞めた旨供述し、かつ、Yについては供述しなかった(2・3員面、2・6検面)ところ、後には、Vが首を絞めてから、Yも被害者の頭の方から首を絞め、私もVと同じ方向から首を絞めたと供述している(2・10員面、2・12検面)。Zの右供述の変化については、どうして途中でYの実行行為が脱落したのか不思議である。Zも首を絞めたということになり、YとZを入れ替えて供述したところが、やはりYも首を絞めたということになり、その旨の供述に変えたという見方も成り立つと思われる。

(二)  Vは、当初、自分が両手で被害者の首を絞めたら、YやZも私に加勢して首を絞めた旨供述した(1・30員面)が、その後は、Zが首を絞めたかどうか分からない旨供述して同人を除外し、自分が被害者の腹に馬乗りになり両手で首を絞めると、Yも自分の左側にきて自分の手の上から首を絞めた旨供述している(2・6検画、2・9員面、2・12員画、2・14検面)。Vが、当初、Zも首を絞めた旨供述した当時、他の被告人らの各員面でZが首を絞めた旨供述したものはなかったのに、Vだけがどうして右のような供述をしたのか、また、どうしてそれを後に変更したのか、その理由が全く不明である。

(三)  Yは、当初、私が殺してしまえと言って、被害者の上に馬乗りになり両手で首を絞めると、被害者がものすごい力で私の両手に爪を立てるように掴みかかって暴れるので、Vも私の手の上から両手で絞めた旨供述し(1・27員面、2・3員面)、さらに右に加え、自分が絞めていた手を離すと、Vに命じられたZが首を絞めた旨供述していた(2・3員面、2・5検面)にもかかわらず、次には急に供述を変え、Vが被害者に馬乗りになって両手で首を絞め、「お前らもやれ。」と言ったので、私も同女の頭の方から、Vの絞めつけた手の上から両手で乗しかかって絞めた後、同女が死んだと思って手を離すと、Zが私のやったように同女の頭の方から首を絞めた旨供述するに至った(2・8員面)。そして、最後には、自分が手を離したとき、VがZに「お前も絞め。」と言ったが、Zがどんな風にして首を絞めたか見ていない旨供述している(2・11検面)。Yの右供述の変転は、同人の自白のみならず他の被告人らの自白の任意性及び信用性を考えるうえで、極めて重大である。Yが最初に被害者の首を絞めたという事実は、Y以外の被告人らは全く供述しておらず、捜査官らにおいても結局はその事実を信用しなかったものであるのに、Yが、どうして逮捕当日の1・27員面でその事実を自供したかが問題である。およそ、犯人が捜査官に犯行を自白する場合に真実以上に自己に不利益な自白を任意にするであろうか。よほど特別の事情がないかぎりそのようなことは考えられないところである。Yについて、どのような事情があったと考えるべきであろうか。前記第二の1の(五)に記載したようにYを取り調べた司法警察員角谷末勝は、Yに対し、その手の傷を追及したら同人が自白したと述べていること及びYの1・27員面においても、Yが被害者から爪を立てるように暴れられたので、Vが加勢した旨の供述が録取されていることに徴すると、右角谷は、Yの手に傷があることをもって同人が被害者殺害の実行行為の主役であると考えて、Yから自分が最初に被害者の首を絞めたという自白を得たのではないかと推認するほかない。そして、右角谷は、Yの2・3員面録取においても、同様の自白をさせたが、他の被告人らとの間にくい違いがあるため、Yの2・8員面(図面添付のもの)では、同人に供述を変えさせざるをえなくなったものと考えられる。

(四)  Wは、VとYの二人が被害者の首を絞めた旨及びVがZに対し首を絞めるよう言ったが、同人が絞めたかどうか気付かなかった旨ほぼ一貫した供述をしている(1・27員面、2・6検面、2・9員面、2・13検面)。しかし、Wは、VとYの実行行為につき、1・27員面では、VとYが二人でいきなり首を絞めた旨供述していたのに、2・6検面では、Vが被害者の胸の上に跨ぐようにして首を絞めたので死んだと思ったが、Vが同女の上から降りた後、Yも同女の胸を跨ぐようにして首を絞めた旨供述し、さらに、2・13検面では、Vが被害者の胸か腹に跨って首を絞めていたが暴れるので、Yが横から一緒になって首を絞めたが、そのときVはYにも首を絞めさせるため、自分の身体を右か左か覚えないが横へずらしてYと並ぶようにして首を絞めていた旨供述している。右のようにWの供述は、その内容の細部が変わるとともに次第に詳細になるのであるが、その変化にかんがみると詳細であるから信用できるとはいえないことが明らかである。

(五)  Xは、Vが被害者の首を絞めた旨供述していた(1・27員面、2・3員面、2・6検面)ところ、次に、Yも被害者の頭の方でVと一緒に両手で首を絞めていた旨供述して(2・10員面)、Yを実行行為者に加えたが、後に、Yが被害者の手を押えていたか、首を絞めたか、はっきり分からない旨供述している(2・13検面、2・16検面((二枚綴の分)))。Xが、どうしていったんYが首を絞めた旨供述したのかについては、他の被告人らの各供述に合致させたとしか考えられない。そうすると、最後にYの行為を分からないといったのはなぜか、詳細を答えられなくなったからであろうか。その供述の変遷についての疑問は大きいというべきである。

12  被害者の荷物などを持ち運びした状況に関する供述

前記第一の二の6に認定のとおり被害者の荷物、着衣が畑の中に遺留されていたこと及び被告人らの各自白によりVが被害者のがま口を窃取したとされていることとの関係で、誰かが被害者の荷物、着衣を持ち運びしたかどうかが問題となるところ、この点につきV、Z及びYの捜査官に対する各供述があるが、その各供述は次のとおり変転し、また、右各被告人間にくい違いがある。

(一)  Vは、当初、被害者の着衣は、Xが菜葉畑の方に捨てに行ったはずで、また被害者の紙袋等は、Yがどこかに隠したはずである旨供述し(1・30員面)、次いで、Yが被害者のショルダーバッグを持ってビニールハウスを出て行った旨供述していた(2・3員面、2・4員面)ところ(右各供述当時には、いまだ自分ががま口を窃取した旨の自白をしていなかった。)、後には、Zに被害者の荷物と着衣を埋めるからと言って取って来させた旨供述し(2・9員面、2・10員面、2・14検面)、埋めることができなかったその荷物の処分については、Zに荷物をどこかに隠しておくよう指示した旨供述した(2・12員面)後、その供述を変えて、YかZにそれを指示した旨供述している(2・14検面)。

(二)  Zは、当初、Vがビニールハウスから外に出て、畑の中から被害者の荷物を持ってきてそのかばんの中からがま口を取り、その後Yに荷物を元のところへ持って行かせた旨供述していた(1・27員面((角谷末勝)))ところ、次に、Vから埋めるからと言われて自分が畑の中から被害者の荷物を、そしてWがパンツなどを持ってきた旨及びVがカバンからがま口を取った後、Vに言われ自分が持ってきた荷物を畑の道路寄りに置いてきた旨供述し(2・3員面)、さらに供述を変更して、Vに言われて自分が畑から荷物を持ってくると、Vがハンドバックからがま口を取った後、同人から被害者のズボン、パンツも取って来いといわれて取ってきた旨供述している(2・10員面、2・16検面)。

(三)  Yは、当初、VがZに被害者の荷物を持って来させ、またZにそれを持って行かせた旨供述していた(1・27員面)が、後には、自分がVに言われて荷物を道路に近い畑の上に置いた旨供述したうえ、その置いた場所を図面に記載し、(2・3員面((右図面添付))、2・5検面)さらにはこれを覆して、Zが荷物もパンタロンなども持って外へ出た旨供述している(2・9員面、2・11検面)。

(四)  以上V、Z及びYの各供述、特に荷物を持ち運びしたかどうかという自己の体験として容易に思い違いなどするはずのない事柄についてのZ及びYの各供述(Yは図面まで記載したうえ供述している。)がどうしてこのような変転をするのか理解しがたいことである。

13  Vのがま口窃取に関する供述

Vは、被害者からがま口を窃取した旨供述し、また、Z、W及びYは、いずれもVががま口を窃取し、あるいは所持していた旨供述しているが、それぞれ供述の変遷があり、またその供述に不自然な点がある。

(一)  Zは、当初、Vが被害者のかばんの中から一〇センチ位の大きさの緑色のがま口を黙って右ズボンポケットに入れて奪った旨極めて具体的な供述をした(1・27員面((角谷末勝)))が、次には、Vが被害者の荷物を調べていたが、がま口のような物を見つけてそれを取った旨の大まかな供述になり(2・6検面)、その後、Vがハンドバック(かばんと別のもの)から底の方が一〇センチくらいの三角な型をした緑色のがま口を取り出し、「これ、わいもろとくわ。」と言って自分のズボンのポケットに入れた旨供述したうえ、そのがま口の図面を書いているのである(2・10員面((右図面添付)))。右図面は、前記G子が、1・30員面において、被害者の所持していたがま口を図面に書いたものに類似するもので、留金まで詳細に書いているのであるが、仮にZが見たとしても一瞬のことであるのに、これだけ色、型、大きさまで記憶して図面に書けるとは到底考えられない。Zが、2・6検面では、がま口のような物と言っていたことにかんがみると、なおさらである。捜査官が、Zに色、型、大きさなどを教えて供述させ、かつ、図面を書かせた疑いが強いといわなければならない。また、ZのVの言動に関する供述が変遷したことも不自然である。

(二)  Vは、当初、Yがショルダーバックを開いて、がま口を見ていたが、これをまたバックに入れた旨供述し(1・30員面)、また、Yがショルダーバックから一〇×一五センチくらいのがま口を取り出し見ていたので隠しとけと言った旨供述していた(2・3員面、2・4員面)が、後に、ショルダーバックに直径一〇センチくらいの真丸ではなく、底の方が少し広くなった青色のがま口が入っており、中を見ると現金が入っていたので、そのがま口を自分のズボンの右ポケットに入れたが、ZやYも見ていたと思う旨供述し、Z同様にそのがま口の図面を書いている(2・10員面((右図面添付))、2・14検面)。Vは、右供述の変遷の理由につき、がま口を盗んだというと罪が重くなるから最初は隠していた旨供述する(2・10員面、2・14検面)のであるが、Z及びYが見ていたというのであれば、隠し通せると思うのは不自然であり、また、がま口を知らないと弁解するのならともかく、Yががま口を見ていたとすることも不合理であると思われる。また、前記一に説示したとおりがま口が発見されなかったことも、Vのがま口を窃取した旨の自白の信用性を疑わせるものである。

(三)  Wは、当初から、本件犯行現場から逃げた際、Vが女物の緑色のがま口を持っているのを見た旨供述し(1・27員面)、後にさらに詳しく、本件犯行現場から二色の浜駅へ帰る途中、Vが、私やXに縦、横五、六センチくらいの手の掌に乗るくらいの青っぽい財布を見せて「あの女が持っとった財布や、持ってきたんや。」といったのを覚えている旨供述している(2・9員面、2・10員面、2・13検面)。しかし、V及びXは、右のような供述をしていないし、Vが帰る途中わざわざ窃取した財布を見せたというのも不自然であると思われる。

(四)  Yは、当初、Vが被害者のかばんを開けて一〇センチくらいの大きさの緑色がま口を見つけて、「これ、俺がもらっとく。」と言って、ズボンのポケットに入れた旨供述し(1・27員面)、次いで、Vがかばんの中からグリーン色の物を出して、私に手招きするので、走って行ってみると、Vが丸い型で幅一〇センチくらいのグリーン色のがま口を持っており、「これ俺がもろとくわ、黙っておいてくれ。」と言って見せたうえ、ズボンの後ポケットに入れた旨供述し、その図面を書いている(2・3員面、2・5検面、2・9員面((右図面添付))、2・15員面)。しかし、Yの右供述は、Vががま口を盗むのに、わざわざYを呼び付けて、見せたうえ、「これをもろとく。」とか「黙っておいてくれ。」とか言ったという点でいかにも不自然である。捜査官において、Yにがま口の大きさ、型などを具体的に供述させるため、右のような供述を求めた疑いがある。ちなみに、Yの2・11検面では、同人は、Vが荷物を調べ、がま口を取ってポケットへ入れるのを見た旨しか供述していない。

14  Yの手の瘢痕に関する供述

Yは、被害者の首を絞めたとき、同女から両手の甲に爪を立てられて傷ができた旨供述し(1・27員面、2・3員面、2・5検面、2・8員面((図面添付のもの))、2・11検面)、Vは、本件犯行後自転車で逃げるときYが被害者に手をひっかかれたと言っていた旨供述し(2・14検面)、また、X及びWは、いずれも、一月二二日風呂屋でYから被害者にひっかかれたものだと言って手の傷を見せられた旨各供述している(Xの2・10員面、Wの2・13検面)が、前記第三の三で認定判断したとおりYの手の瘢痕が被害者の爪により生じたものとは認められないことに徴すると、右各供述は、いずれも信用性を欠くものといわなければならない。

15  本件犯行後被告人らが別れた場所に関する供述

Z、W及びXの各自白によれば、被告人らは、本件犯行後二色の浜駅前から再び自転車三台に分乗して貝塚駅前に戻り、同所で、Z及びVが他の被告人らと別れたというのであるが、この点につき、VとYの各供述には変遷がある。Vは、初めは、自分とZは二色の浜駅前で他の被告人らと別れて電車で羽倉崎に行った旨供述していた(1・30員面、2・1員面、2・4員面)が、次には、自分とZは電車に乗って羽倉崎に行ったが二色の浜駅から乗ったか貝塚駅から乗ったか覚えていない旨供述し(2・6検面)、その後供述を変えて、被告人らが二色の浜駅前から貝塚駅前まで自転車で帰り、その際自分はZの自転車に乗せてもらった旨供述し、かつ、その帰りの経路を図面に書いている(2・10員面((右図面添付))、2・14検面)。Vの右供述の変遷の理由は明らかでないが、同人が2・10員面で初めて、がま口窃取を自白していることと関連があるとも思われる。すなわち、そのがま口を捨てた場所(二色の浜駅前から貝塚駅前へ帰る途中の近木川)を供述するためには、貝塚駅前まで帰った旨供述しなければならなくなったのではないかとも思われるのである。しかし、がま口窃取を隠すために、当初から二色の浜駅で電車に乗った旨供述する必要があったとまでは考えられず、したがって、当初の供述が虚偽であるとまで断ずることはできない。また、Yは、当初、被告人らは、貝塚駅前で別れた旨供述し(1・27員面)ながら、次には、V及びZとは二色の浜駅で別れた旨供述を変え(2・5検面)、再び、同人らとは貝塚駅前で別れた旨供述している(2・9員面、2・11検面)。そして、途中で、二色の浜駅前で別れたといったのは、貝塚までの道順を思い出せなかったので二色の浜駅で別れたといった旨供述する(2・15検面((五枚綴の分)))のである。しかし、Yは、その思い出せなかったという道順につき、2・9員面においては、詳細に供述し、図面の作成までしていることに徴すると、右供述を変えた理由はにわかに信用できない。

三 結び

前記一において説示したように、ZのEに対する供述及び被告人らの捜査官に対する各供述には、いわゆる秘密の暴露に当たるものがないから、その各供述が、本件犯行現場及び付近の状況並びに被害の状況などに客観的に符合しているというだけで、直ちに信用することはできないのであって、その各供述が、被告人らが自ら体験しあるいは知覚した事実を自らの記憶に基づいて述べたものであるとの心証をえて、はじめて信用できるものというべきである。仮に本件犯行が、被告人らの犯行であるとすれば、多人数によるもので、その犯行時及び前後の事実関係をすべて正確に知覚し記憶することは困難であり、したがって、被告人らにある程度の知覚の誤り、記憶の喪失、記憶違いなどがあることは当然であり、そのため他の被告人の供述との間にくい違いがあったり、自らの供述を訂正変更したりすることもありうると思われる。しかしながら、被告人らの各供述の変遷及び他の被告人らとの間での不一致があるとしても程度の問題であり、それが余りにも顕著であるときには、その各供述の信用性に疑問を生ずることになるのは当然である。しかるところ、本件については前記二において指摘したところから明らかなように、被告人らの捜査官に対する各供述には、余りにも看過しがたい変遷、変転が多く、また、被告人ら相互間に看過しがたい供述のくい違いが数多くあるほか、供述自体の不自然不合理もあって、その信用性を肯定するには疑問がありすぎるといわなければならない。特に疑問となる点を要約すると、Vを除く被告人らは、いずれも一月二七日に逮捕され、同日付の各員面において自白しているところ、それら各員面の供述相互間に重要な点でのくい違いがあったこと、しかるに、その各供述がその後変遷し、他の被告人らの供述に合致するものになっていること、記憶を喪失したり、記憶違いをすることが考えられないような事柄について容易に供述が変転していること、供述の変転が一度ならず、二度、三度にわたるものがあり、また中には転々とした挙げ句初めの供述に戻っているものもあること、供述が極めて具体的詳細で図面の記載までしたことにつき思い違いであったとしてその全部を変更していること、供述を変更したことにつきほとんど合理的な説明がなされていないこと、知覚しえたかどうか疑わしい事実を詳細に供述していること、被告人ら相互間で不一致を来すはずのない事柄について供述にくい違いがみられることなどの点である。右のような被告人らの各供述の変遷、変転、くい違いなどからすると、被告人らは、いずれも捜査官の誘導あるいは押付けにより、また自らの想像により捜査官が想定する事実を供述し、あるいは供述させられたのではないかとの疑問を抱かざるをえない。(なお、付言すると、被告人らの立会による実況見分が行われたのが、捜査開始後相当の期間経過後、すなわち、Zが二月七日、Yが二月一三日、Xが二月一四日、V及びWがいずれも二月一五日であるが、右は、被告人らの各供述を固め、不一致を少なくしてから実況見分をしようとしたのではないかと疑うことも可能である。)

以上のほか、前記第三において説示したように、物的証拠が本件犯行と被告人らとを結びつけていないことをも併せ考えると、結局、被告人らの捜査官に対する各自白の信用性には疑問があり、さらにはZのEに対する自白の信用性にも疑いが生ずるといわなければならない。

第五被告人らのアリバイの成否

一 被告人らのアリバイの主張について

所論は、本件犯行の日時には、V及びZは、泉佐野市《番地省略》第二甲野荘アパートのL(以下Lという。)方居宅(以下L方という。)に所在し、W、X及びYはいずれも岸和田市上松町《番地省略》C子方居宅(以下旧町名の呼び方で門前町の家という。)に所在していた旨の各アリバイを主張し、被告人らは、公判廷において、右所論に沿う各供述をしている。その各供述の要旨は、次のとおりである。

1  一月二一日午後八時ころ、貝塚市駅前の喫茶店カーミンでは、V、W、Y、Z、Vの連れであったH子、V及び、Wの妹のI子(当時一五歳、以下I子という。)、同女の連れであったJ子及びK子(当時一四歳、以下K子という。)が一緒に遊んでいた。その後、H子、I子及びJ子は、先にカーミンを出て帰った。W及びYは、その夜門前町の家でXらと酒を飲むことにしていたので、K子を誘い、同女を先に岸和田駅前に行かせた。そして、午後一〇時前、V、W、Y及びZはともにカーミンを出た。

2  VがZを誘い、両名は、午後一〇時すぎころ貝塚駅から電車に乗り、羽倉崎駅で下車し、L方に午後一〇時三〇分か四五分ころに着いた。そして、L、同人の内妻M子(以下M子という。)及びN(当時一六歳くらい、以下Nという。)と翌二二日午前二時ころまでテレビを見たり、食事をしたりした後、就寝した。

3  W及びYは、前記のとおりカーミンを出て、それぞれ電車で貝塚駅から岸和田駅に向かったが、門前町の家に行くことをVに感付かれないように、Yが先の電車に乗り、Wは後の電車に乗った。

4  他方、Xは、一月二一日夕方D子(以下D子という。)とともに門前町の家から岸和田駅前に出て、アレンジボール店「ニュー岸和田」でO(以下Oという。)及びP(以下Pという。)と出会い、その夜門前町の家でWらと飲酒することにしていたので、これにO及びPを誘った。午後八時か八時三〇分ころ、XとOは酒を買いに行き、銭湯に入ったりした後、再び「ニュー岸和田」でO、P及びD子らと遊んでいた。

5  同日午後一〇時すぎころ、岸和田駅出で、Y、K子、W、X、D子、O及びPが一緒になった。そのころ、D子がビールを買ってきた。そして、午後一〇時三〇分ころ、同駅前から、一台のタクシーにY、K子及びWが、他の一台にX、D子、O及びPが乗って、門前町の家に行き、七人で午前三時ころまで酒を飲んだり、テレビを見たりして遊んだ後、就寝した。

二 V及びZのアリバイの成否について

1  原審における右についての証拠としては、L、N、I子及びQ子の各原審証言並びにL、N及びI子の各検面供述があるところ、原判決は、V及びZ(以下右両名をVらともいう。)のアリバイを否定するL及びNの各原審証言は、右両名がいずれもVらの親しい友人であるのにアリバイの主張に沿わない供述をしているが、敢えて虚偽の供述をする動機がないこと、右各証言の内容は極めて自然で明確かつ断定的であり、特にVらがL方に来た時刻に関する点はテレビ番組の時間に基づくものであることなどに徴すると、その各証言の信用性は高いとしたうえ、これにV及びZの捜査官に対する各供述調書における本件犯行の自白、アリバイ工作をした旨の供述などを総合して、Vらにはアリバイが成立しない旨判示している。しかるところ、当審では、再度Lを証人として尋問し(なお、同人の2・3員面、2・16員面、2・21員面、2・23員面及び2・26検面を刑事訴訟法三二八条書面として取り調べた。)、M子の2・3員面、2・17員面及び2・23検面を同法三二一条一項三号又は二号書面として取り調べたので、これらをも含めてVらのアリバイの成否について検討することとする。

2  証拠の検討

(一)  Lは、原審では、「自分は、一月二二日午前零時五〇分に終わるテレビのディスコ番組『ソウルトレイン』を見終わってから寝ていたら、M子に起こされて、VとZが来たことが分かった。時刻は午前一時すぎであった。その後、食事をしたりコーヒーを飲んだりして皆で寝た。その後、一月二五日ころ、Vから、Zが本件犯行の犯人にされそうだから、自分の家に二一日午後一〇時四〇分ころ、VとZが来たことにしてほしいと頼まれたので承知した。」旨アリバイ否定の証言をしていたが、当審では、右証言を覆し、「原審で、Vらが一月二二日午前一時すぎに来たと言ったのは記憶に基いたものと違う。寝ているのを起こされたので、時間ははっきりしないが、それから、テレビで一〇時四〇分ころの「ドラゴン危機一発の予告編」とか翌二二日午前零時二分から零時五〇分までの「ソウルトレイン」を見た。後日、Vからアリバイ工作を頼まれたことはない。一月二五日ころ、Vから、貝塚の事件のとき僕の家に泊りに来たのが早かったことを確認されて、早かったと言っただけである。」旨アリバイ肯定の証言をし、また、「原審でVらが二二日午前一時すぎに来たと言ったのは、自分が二月一六日にVらのアリバイのことで証拠いん滅の容疑で逮捕、勾留されていて、その釈放をされる際、捜査官から裁判所に証人として呼ばれたら調書どおり述べないとまた勾留するとか起訴すると言われたし、また裁判所での証書をする前に以前の取調検事から調書のとおり供述するように言われたうえ、その検事の目の前で証言させられ、怖かったからである。」旨証言している。そこで、右原審又は当審のいずれの証言を信用すべきかを検討する。原判決は、右原審証言中、VらがL方に来た時刻に関する供述がテレビ番組の時間に基づく点を信用できる理由の一つとしているが、当審証言もテレビ番組の時間と関連して供述しているのであり、テレビ番組のごときは記憶していなくても、あるいは見ていなくても、後にその放映時間を知ることができるのであるから、これを基準に供述した時刻であっても、現実にそのテレビ番組を見たこととその前後の事情が証明されるのでなければ、その時刻についての供述が信用できるとはいえないのである。また、原判決は、Lに敢えて虚偽の供述をする動機がないというのであるが、Lは原審でも、二月一六日警察からVらのアリバイのことで証拠いん滅の容疑で逮捕された旨供述しており、これが動機となりうるのに、この点に関し何ら触れていない。しかし、アリバイに関する参考人が身柄を拘束されることは異例であり、その供述の信用性を考えるに当っては、軽視できないことと思われる。右の点に留意しつつさらに子細に検討してみるに、Lの原審及び当審各証言、同人の前記各員面、検面及び(員)に対する2・16弁解録取書によれば、同人は、二月三日貝塚署に自ら出頭して、Vらは、一月二一日午後一〇時四〇分ころ、L方に来た旨供述して2・3員面を録取されていたところ、その後九州に行き、帰ってきた二月一六日、右供述に関し証拠いん滅の容疑で警察に逮捕され、(員)に対する2・16弁解録取書において、Vらは一月二二日午前一時前後にL方に来た旨の供述をし、その後、2・16員面、2・21員面、2・23員面及び2・26検面においても同旨の供述をしたが、その間逮捕及び勾留をされていたことが認められる。そして、Lは、前記2・3員面では、私、妻及びNは、一月二一日は昼からVらが来るまで寝込んでいた旨供述していたのに対し、(員)に対する2・16弁解録取書では、一月二一日私は妻とテレビ番組のソウルトレインを見てから寝てしばらくするとVらが来た旨供述したが、2・16員面では、Vらのアリバイを否定しているのに、前記2・3員面と同様に、自分らは、一月二一日午後三時ころから夕食も摂らずに寝ていたら、二二日午前一時前後にVらが来た旨供述し、2・21員面では、再び、自分らは、テレビのソウルトレインを見終わってから寝た後、Vらが来た旨供述し、2・26検面でも同旨の供述をしている。疑問なのは、Vらのアリバイを否定する2・16員面において、なぜ午後三時ころからVらが来るまで寝ていた旨供述したのかということである。右供述がなされていること、Lが前記のとおり逮捕、勾留されていたこと及び同人が、当審において、供述を変えたら捜査官がM子に会わせてくれた旨供述していることなどに徴すると、同人のソウルトレインを見てから寝た旨の供述が、同人の記憶に基づくものではなく、捜査官の暗示、誘導あるいは心理的強制によってなされた虚偽の供述であるとの疑いを容れる余地がある。そして、Lは、原審では、ほぼ2・26検面に沿う供述をしているのであるが、この点についても、同人が前に逮捕、勾留されたことに照らすと、同人が、当審で供述するように、捜査官から調書どおり供述するように言われたことを守らなければ、再び自己の刑責を追及されることになると考えたことが全く虚偽であるとして排斥することができないと思われる。

それでは、LのVらのアリバイを認める当審証言が信用できるかとなると、これも疑間である。Lは、当審において、いったんは前記のとおり、Vらが来てからテレビで「ドラゴン危機一発の予告編」及び「ソウルトレイン」を見た旨証言したが、右証言は、同期日における後の尋問に対しては、右テレビ番組を見たことがはっきりしない旨の証言をしていることに照らし、信用性に乏しいといわなければならない。

右に検討したとおり、Lが原審及び当審において、それぞれテレビ番組を見た旨各証言しているものの、いずれも真実そのテレビ番組を見たかどうか、そしてそれとVらが来たこととの前後関係を記憶しているかどうかについて疑いがあり、むしろ、Lは、Vらが来た時刻が判然としないのにかかわらず、テレビ番組と関連づけてその時刻を特定しようとしたのではないかと思われる。したがって、Lの原審及び当審各証言は、Vらのアリバイの成否を決するに足るものではないというべきである。

(二)  次に、Nは、原審において、「二一日の夜、自分は、L及びM子と一緒にテレビ番組の「ソウルトレイン」を一二時五〇分まで見てからこたつに入って横になっていたところ、一〇分か二〇分してVらが来た。」旨証言している。そして、原判決は、右証言が明確かつ断定的であるというのであるが、Nの原審証言を全体としてみると、そのようにいうことはできないと考える。すなわち、Nは、右証言の後、さらに尋問されて、「二月初めころ、警察で事情を聴取されたときも、Vの弁護人から事実を確認されたときにも、別にVらを庇うつもりはなく、考えてもはっきり分からなかったが、Vらが早く来たと思っていたので、それぞれそのように述べた。その後、二月一五日ころ、警察でいろいろ聞かれて、やはりVらは遅く来たと述べた。それは、テレビの番組を新聞を見て思い出したからである。」旨証言しているところ、そのテレビの番組を見て思い出したという点の供述があいまいであり、二月初めころに思い出せなかったことをその後真実思い出すことができたか疑問であって、右証言を含めNの証書全体をみると、同人の前記Vらが来たのがテレビの「ソウルトレイン」が終わってからである旨の証言部分をたやすく信用することはできない。なお、Nは、当審の同人に対する証人尋問の決定による召喚に応じなかったものであって、このこともNの原審証言の信用性を判断するに当たり消極の事情として考慮せざるをえない。

以上によれば、Nの原審証言もまた、Vらのアリバイを否定するに足るものではないといわなければならない。

(三)  M子は、2・3員面、2・17員面及び2・23検面において、いずれも一月二一日の夜は、一二時二〇分から一二時五〇分までテレビで「ソウルトレイン」を見て、その後寝かかったらVらが来た旨供述している。しかしながら、右各員面及び検面における供述は、反対尋問を受けていないものであるうえ、原審においては、検察官は、右各員面及び検面の証拠調請求をし、被告人らの不同意によりその撤回をしたが、M子の証人尋問の請求をしなかったこと、及び、Lが、当審において、M子は本件で証人として呼ばれてもかかわり合いたくないから出頭しないと言っていた旨証言していることをも考慮すると、M子の右各員面及び検面における供述の信用性の判断については、慎重にならざるをえない。しかるところ、M子は、2・3員面において、前記のとおりVらのアリバイを否定する供述をしているのであるが、Lの当審証言及びNの原審証言並びにM子の2・17員面及び2・23検面によれば、M子は、二月三日に、L及びNとともに、Vらにアリバイがあることを説明するため自分から警察に出頭したこと及び、Lは同日警察でその説明をしていることが認められることに徴すると、M子が、2・3員面において右のような供述をしたということについては何らかの経緯があったと思われるのに、その経緯が明らかでないことに疑問がある。そして、前記のとおりL及びNの原審におけるVらのアリバイを否定する各証言が信用するに足りないことを併せ考えると、M子の前記各員面及び検面供述もにわかにこれを信用しがたいといわざるをえない。

(四)  なお、Vは、捜査官に対し、「自分らがL方に行ったのは一月二二日午前一時ころであったのに、同月二四日ころ、同人に対して自分らが同人方に同月二一日の午後一〇時すぎであったことにしておいてくれるようアリバイを頼んだ。」旨の各供述をしている(2・4員面、2・6検面、2・12員面、2・13員面、2・15員面、2・14検面、2・17検面、2・24員面)が、右各供述は、前記第四に説示したとおり同人の本件犯行の自白が信用できないことに照らして、その信用性は否定されるべきものであり、したがって、前記(二)ないし(四)のアリバイ否定の各証拠を補強するものとはなりえない。

3  以上説示したところに加え、さらにVらの公判供述その他関係各証拠を検討してもVらのアリバイは、その成立を認めるに足る証拠はないというべきであるが、また、同時に、そのアリバイが虚構のものであるとまでは断じがたく、したがって、その成立の可能性を否定し切れないというべきである。

三 X、W及びYのアリバイの成否について

1  原審における右についての証拠として、P、D子、K子、R子、S、T及びI子の各原審証言、P、O、右S、D子及びI子の各検面並びにK子の員面(ただし、刑事訴訟法三二八条の書面)があるところ、原判決は、X、W及びY(以下右三名をXらともいう。)のアリバイを否定するPの原審証言及び検面(刑事訴訟法三二一条一項二号後段書面)は、同人がXらと親交のある間柄であるのに、同人らに不利な供述をしているものであり、ことさら虚偽の供述をして同人らを陥れる動機がないこと、供述内容は自然で作為的な点が認められず、特に同人らと飲酒した日の特定につき、翌日は女性が着物を着飾っていて成人式の日であったことから断言できる旨供述していることなどに徴し、その供述の信用性は高いとし、また、同じくXらのアリバイを否定するOの検面(刑事訴訟法三二一条一項二号前段書面)は、その供述内容に格別不自然な点あるいは作為的と認められる点は存せずその信用性を認めるに十分であるとして、Xらの捜査官に対する各供述調書における本件犯行の自白、アリバイ工作をした旨の供述のほかD子、I子の各検面の供述などと総合して、Xらのアリバイは成立しないと判示している。しかるところ、当審では、再度Pを証人として尋問し、また原審で所在不明であったOも証人として尋問したので、これらをも含めてXらのアリバイの成否について検討することとする。

2  証拠の検討

(一)  Pは、原審では、「自分は、門前町の家でX、W、Y、D子及びOと酒を飲んだのは、一月一四日であったと思う。事件の後、一、二週間してD子からXが逮捕されたと聞かされたが、そのとき同女から一月二一日に一緒に酒を飲んだのと違うかと聞かれたが、はっきり覚えがなかった。その後Oと話しをしたが、同人もはっきり分からず、一月二一日に飲んだことにしようと決めた。そのときには、飲んだ翌日が晴着の人の多かった成人式の日であったことから飲んだ日は一月一四日であることを思い出していた。そして、二月二三日警察官及び検察官から事情を聞かれ、警察官に初めは酒を飲んだ日を一月二一日と言っていたが、うそをつくのは悪いので後でその日が一月一四日であると述べた。」旨アリバイ否定の証言をし、また検面においては、「一月七日ころ、Xから自転車を借りて乗っていたが、それから一週間くらいした一月一四日に門前町の家でXらと酒を飲んだ。一月末ころ、D子から一月二一日に一緒に飲んだことにしてくれと頼まれた。」旨供述しているが、当審では、「門前町の家で飲んだのは、一月二一日夜であり、自分とX、W、Y、Oと女の子二人の七人であった。Xらが逮捕されて四、五日後に女の子(名前は分からない)から二一日に一緒に飲まなかったかと聞かれて、飲んだと答えた。そのとき、アリバイ工作を頼まれたことはない。二月二三日貝塚署に呼ばれ、午前八時ころから午後四時ころまで警察官四人くらいから取り調べられた。二一日Xらと一緒であったと言ったが聞いてもらえず、共犯だと言われた。そして、警察官から頭をどつかれたり座っていた椅子をひっくり返されたりした。結局警察で、Xらと飲んだのが一月一四日であるとうそを言った。その取調を受けた後、裁判に出るのが嫌で同人と大阪から逃げようかと話し合ったことがあり、また自分は証人として裁判所に出頭しながら、うそを言うのが嫌で逃げ出したことがある。一審ではうその証言をしたが、それは、一月二一日と言ったらまた警察に引っぱられると思い、怖かったからである。」旨証言している。これに対し、司法警察員武内勝春(なお、同人は、前記第二の二の1の(四)で述べたようにXの取調をした者である。)は、当審において、「二月二三日午前九時三〇分ころから上田刑事と二人でPを取り調べた。同人は、初めのうちは、Xらとは一月二一日に酒を飲んだと言っていたが、うそを言わないよう諭したら三〇分くらいして一月一四日にXらを含め七人で酒を飲んだ旨供述した。その日が一月一四日であるのは、一月七日か八日にXから自転車を借りて一〇日も経っていないころであり、その翌日アレンジボールに行くと人が多く祭日であったと思うからであると述べた。警察官がPに対し暴行など加えたことはない。」旨証言している。

そこで、Pの右原審証言及び検面供述が信用できるのか、又は右当審証言が信用できるのかを考えるに、Pの警察で暴行を受けた旨の当審証言を虚偽であるとまでいえないように思われる。けだし、武内は、当審証言でその事実を否定し、Pを諭したら同人が一月一四日だと述べたというのであるが、諭したというだけでPが供述を変えたか疑問が残るし、また、後記(二)のとおりOも同様に警察から暴行を受けた旨供述しているからである。そして、これに、Pの裁判所に出頭して逃げ出したのが警察が怖くてうその証言をしなければならないからである旨の当審証言も信用できないとまでいえないこと(被告人らが怖くてアリバイ否定の証言をしがたいということも考えられないわけではないが、それならば、その旨を警察官か検察官に告げているはずである。)、Pは、捜査官の取調べを受けた当時、Vらのアリバイの参考人一人が逮捕されたと聞いていたこと(Pの2・3検面)、Pの飲酒した日が一月一四日であるとする根拠が検面供述と原審証言とでくい違っており、原審証言における翌日が成人式であった旨の供述も、当初一月一四日ということを何となく思い出したと言いながら、後で根拠を付け加えたものであることなどを総合してみると、Pのアリバイ否定の原審証言及び検面供述には疑いを容れる余地があるというべきである。

(二)  Oは、検面において、「二月一日ころ、Pから、同人がD子からXらと酒を飲んだ日が一月二一日であったことにしてほしいと頼まれたがどうするかと相談を受けた。Xらと酒を飲んだのは一月一四日であるから偽のアリバイを作ろうとしていることはすぐに分かったが、警察に聞かれたときには一月二一日と言うことにしようと決めた。今日警察に呼ばれてXらのことを聞かれ本当のことを述べた。今度の事件でうそのアリバイを作ってやろうとしたLが警察に捕まったということを新聞で見たので、うそをついてもばれると思った。」旨供述していたが、当審においては、「一月二一日の晩、門前町の家で、自分のほかP、X、W、Yと女の子二人の七人がテレビを見たり、酒を飲んだりした。被告人らが逮捕されて一週間経たないころ、Pから被告人らが逮捕されたが酒を飲んだ日を覚えているかと言われ、記憶を追ってその日が二一日の日曜日であることを思い出した。二月三日貝塚署に呼び出されて取調室で刑事二人に事情を聞かれたが、そのとき『お前なんかそこらじゅう(Xらのアリバイを)言ってるそうやけど覚悟しろ。」と言われ、Xらのアリバイを説明しても聞いてくれなかった。そして、同署の奥の道場の横の防具などを置いている更衣室のような細長い部屋に連れて行かれ、板の床に正座させられて、供述させられた。自分がXらのアリバイの供述をくり返すと、刑事からは倒されたり、乗ってこられたり、頭を掴んで耳元で怒鳴ったりされ、またお前も犯人として逮捕するとか言って脅された。その後、Pが本当のことを供述したと言って同人のいる調室へ連れて行かれた。刑事が先の供述をもう一度するようPに言い、同人が一月二一日だと言うと、刑事が怒ってPを座っている椅子ごと壁にぶつけたので、同人は一月一四日だと言った。その結果、Xらと酒を飲んだのが一月一四日である旨の自分の調書が作られ、これを認めた。同日夕方検察官の取調を受けたが、刑事から同じ供述をするように言われていたので、それに従った。翌日Pと会い、Xらの裁判で証人に出たくないので、どこかへ出て行こうと話し合った。結局、自分だけが地元を離れて京都、大阪、東京と転々とした。東京にいるとき実家から裁判所の呼出状を送ってきたが、そのままにし一審では証人に出なかった。」旨証言した。これに対し、司法警察員の角谷末勝は、当審において、「二月二三日貝塚署で、自分と本田刑事がOを取り調べた。同人は初めのうち、二一日にXらと酒を飲んだ旨供述したが、『事件にかかわり合いなかったら、そういうことで関係するな。』と言って聞かせたら、二、三〇分して、本当は一月一四日夜であったと供述した。Pを通じD子からアリバイを頼まれたと言っていた。Oに対し暴行したことは絶対ない。道場の方に連れて行って正座させたり、Pに会わせたことはない。」旨証言する。

そこで、Oの右警察で取調を受けた状況に関する当審証言の信用性を考えるに、同人は被疑者ではなく参考人として取調を受けたものであり、後に証人尋問で暴行、脅迫を受けたというような供述をすることは通常ありえないことであるのに、その旨の供述をし、しかもその内容が場所の点も含めて極めて具体的であること、そして、同人の警察で取調を受けて後裁判所へ証人として出頭しなかった事情についての供述も全く虚偽とは思われないこと、これに対し、角谷の当審証言は、暴行、脅迫の事実を否定するものの、Oを説得した事情についての供述があいまいであり、同人がXらのアリバイにつき肯定から否定の供述をするに至った経緯が不明確であって、必ずしも信を措きがたいものであることなどにかんがみると、Oの右証言を信用できないとはいえないというべきである。そうだとすると、Oの当審におけるXらのアリバイ肯定の証言もこれを虚偽であると決めつけることもできないことになる。また、Oの検面には、門前町の家でXらと飲酒した一月一四日の後、二、三日してSを連れて再び門前町の家に行ったことがある旨供述しているところ、右Sも、同人の検面において、自分はOに連れられて一月一七日ころ門前町の家に行った旨供述するのであるが、右Sの原審証言によれば、同人の右検面供述の日にちの特定が間違いないとまではいえないので、Oの検面における右供述が虚偽であるといえないにしても真実であるともいえないと考える。

(三)  D子は、原審において、一月二一日の自己あるいはXらの行動につき前記一記載のXらのアリバイの主張に沿う具体的詳細な事実を証言している。原判決は、D子が、同人の2・10検面において一月二一日にXらがどうしていたか分からない旨供述しているが、二年前後経過して原審で当時の出来事として詳細に供述するくらいなら、右検面でアリバイの供述をしてよいはずであるのに、それをしていないことは不自然であると判示するが、D子及びK子はいずれも原審において、同人らは一月三〇日警察に自分らから出頭してXらのアリバイを述べたが聞いてもらえなかったと各供述していること及び関係証拠に徴すると、当時、捜査官らはD子がXらのアリバイを供述しても虚偽として取り合わず、その供述調書の録取をしなかったことが容易に推認できるのであり、原判決の右判断は正鵠を射たものとはいえないものである。問題は、D子が原審証言において、一月二一日の出来事として供述することが真実同日の出来事であるかどうかということである。しかるところ、D子は、原審において、Xらのアリバイ主張に沿い「一月二一日午後一〇時すぎに岸和田駅前からX、P、Oと金星タクシーに乗り門前町の家に行った。本件の後、調査したところその運転手が東野という人であることが分かった。」旨証言しているところ、当審で取り調べた金星タクシーの運転報告書(当審のみの符号29)によれば、金星タクシーの運転手東野が、一月二一日午後九時二〇分に岸和田駅前から男三人及び女一人の乗客を乗せて門前町まで運行したこと及び同運転手が同日右区間を運行したのは右一回だけであることが認められ、D子の右証言と右運転報告書による事実とは、乗車区間及び乗客数は一致するが最も重要な乗車時刻の点においてくい違いがあり、運転報告書の午後九時二〇分ではXらのアリバイ主張に符合しないことになる。もっとも、D子の原審証言も、自分らの乗ったタクシーが金星タクシーか岸和田タクシーか分からないで、一応白色のタクシーということだけ覚えていた旨供述しているので、後日の調査による金星タクシーの東野運転手のタクシーに乗車したということが誤りで、なお午後一〇時すぎ白色のタクシーに乗車した可能性がないわけではない。それでも、D子の東野運転手であったことが分かった経緯に関する供述が具体的詳細であることにかんがみると、その供述が否定されることは、D子のXらのアリバイに関する供述全体の信用性を疑わせる事情であるといわなければならない。このことに、D子がXと結婚を前提に同棲生活をしていた関係にあって同人らを庇う立場にあること及び前記(一)及び(二)で判断したようにP及びOの関係供述を検討してもXらのアリバイ主張にかかる門前町の家で飲酒した日が一月二一日か一月一四日か確定できなかったことを併せ考えると、D子の一月二一日の出来事である旨の原審証言が真実その日の出来事であることについては、その可能性がないとはいえないが、同時にそうでない疑いも多分に存するといわなければならない。

(四)  K子は、原審において、一月二一日の自己あるいはYらの行動につき前記一記載のXらのアリバイの主張に沿う具体的詳細な事実を証言している。右証言についても、問題はD子の場合と同様にその一月二一日の出来事というのが、同日のことと認めうるのかということである。K子は、右証言において、その出来事が一月二一日のことである結びつきとして、「一月二〇日はT(以下Tという。)と会い、その夜同人と天王寺方面の同人の友人の『びわ』という人のところに行って泊まり、翌二一日夕方六時ころ、Tと右びわ方を出て午後七時すぎに貝塚駅でTと別れ、同駅前の大和パチンコ店でI子と会ってカーミンに行った。」旨供述しているが、Tは、同人の2・1員面において、「一月一九日Vから『明日五時か六時ころカーミンへ来い。』と言われていたが、行くとけんかになるので一月二〇日は行かずに寝ていた。次の日も一歩も外に出ずにテレビを見て過ごしたが、さらに次の一月二二日家にいるとVらが呼びに来たので仕方なくカーミンに行った。」旨供述し、一月二〇日から二一日にかけてK子と行動をともにしたことを否定しており、右供述は、Tの原審証言によっても信用できると認められ(なお、当審で取り調べたTの60・9・13検面は、同人が一月二〇日及び二一日自宅にいた事情を詳細に供述しているが、右供述は、同人が原審において、すでに当時のことについて記憶がない旨証言していたことに照らし信用できない。)、これに反するR子の原審証言が信用できないことに徴すると、K子の前記一月二〇日及び二一日にTと一緒に行動した旨の証言は信用できないといわなければならない。このことに、K子が本件犯行当時Yと交際していたもので同人らを庇う立場にあること及び前記(一)及び(二)で判断したようにP及びOの各関係供述を検討してもXらのアリバイ主張にかかる門前町の家で飲酒した日が一月二一日か一月一四日か確定できなかったことを併せ考えると、K子の一月二一日の出来事である旨の原審証言も、真実その日の出来事を述べた可能性が否定されるものではないが、同時にそうでない疑いを容れる余地も十分あるといわなければならない。

3  以上説示したところに加え、Xらの公判供述その他関係証拠を検討してもXらのアリバイは、その成立を認めるに十分な証拠はないというべきであるが、また、同時にそのアリバイが虚構のものであるとまでは断じがたく、したがって、その成立の可能性を否定し去ることはできないというべきである。

第六結論

以上に説示したとおり、被告人らが犯人であることを認める証拠としては、被告人らの各自白調書における自白及びZの自白に関するE証言があるほかは、物的証拠は存在せず、その他記録を検討しても、直接的あるいは間接的人的証拠を発見することができず、被告人らのアリバイ主張を否定するに足る証拠がないうえ、被告人らの右各自白には著しい変転、くい違いなどがあってその信用性を肯定することができないものであり、そして、その信用性が肯定できないものであることを考慮すると、前記第二において判断した被告人らの各自白に任意性がないとの点も一層明確になったものというべきであって、被告人らの各自白調書及びZの自白に関するE証言はその証拠能力を認めることができないというべきである。

したがって、被告人らの各自白の任意性及び信用性を肯定し、これと他の関係証拠とにより本件公訴事実に沿う事実を認定して被告人ら四名を有罪とした原判決には、任意性に疑いのある被告人らの各自白調書及びZの自白に関するE証言の証拠能力を認めてこれを証拠とした点において訴訟手続の法令違反があり、かつ、証拠の価値判断を誤ったことによる事実の誤認があって、それらが判決に影響を及ぼすことは明らかであるといわなければならない。被告人ら四名及び各弁護人の各論旨(ただし、弁護人黒田宏二の量刑不当の論旨を除く。)は、すべて理由があり、原判決中、被告人ら四名に関する各部分は破棄を免れない。

なお、本件について右のような結論に到達したことに関し触れなければならない点がある。それは、Zが、有罪を言渡した原判決に対し控訴の申立をせず、その判決確定により受刑していることである。仮にZが真犯人でなかったとすれば、懲役一〇年という重い刑を言渡した原判決に対し控訴の申立をしないということは通常考えられないことである、Zは、当審において、証人として、控訴をしなかったのは、未決勾留でいるのが辛く、早く服役して自由になったほうがよいと思ったのと、祖母及び父からも控訴せず服役するよう言われたからである旨証言するのであるが、それだけの理由では納得しがたいところであり、それだけの理由しか述べないことに照らすと、Zが控訴をしなかったのは、同人が真犯人であったからではないかとの推測が成り立たないとはいえない。そうすると、被告人ら四名も真犯人ではないかという推測も成り立ちうる。したがって、Zが控訴しなかったということから考えれば、被告人らあるいは被告人らのうちの誰かが真犯人でないかとの疑いが全くないとはいえない。しかし、本件においては、前叙のとおり証拠を検討した結果、被告人らに対し有罪の認定をする証拠がないとの判断に達したものであり、Zが控訴をしなかったことに疑念があっても、それをもって右判断を動かすことは到底できるものではない。

よって、疑わしきは被告人の利益に、との刑事裁判の鉄則に従い、刑事訴訟法三九七条一項、三七九条、三八二条により原判決中、被告人ら四名に関する各部分を破棄することとする。

第七自判

当裁判所は、刑事訴訟法四〇〇条但書によりさらに次のとおり判決する。

被告人ら四名に対する本件各公訴事実は、前記のとおりであるところ、すでに詳細に説示したとおりこれを認めるに足りる証拠がなく、本件各被告事件はいずれも犯罪の証明がないので、刑事訴訟法三三六条により被告人ら四名に対しいずれも無罪の言渡しをすることとする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 髙橋通延 野間洋之助 裁判長裁判官環直彌は退官のため署名押印することができない。裁判官 髙橋通延)

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